ぼくがこまっているのは、繰り返しによって、生じたものだから、過去は関係がある。だいたい、老化した人だって、いきなり老化したわけではなくて、数十年かけて、老化するわけだろ。からだの器質的な変化があるわけだろ。それなら、過去は関係があると考えるのが妥当だ。どうして、自分にとって都合がよくないことだと、過去は関係がないということになるのか。あるいは、他人にとって、都合がよくなことであって、なおかつ、自分の身には、しょうじていないことだと、過去は関係がないということになるのか。過去……。関係あるんじゃん。なにを言っているのか、わかっているのか? 数千日の繰り返し……毎日の繰り返し……そういったものは、関係がある。現在の状態に関係がある。現在の状態で、動いている。からだの状態という意味だ。「の」の繰り返しになるけど、現在の「からだの状態」……もちろん、今現在の自分の行動や自分の判断に関係がある。なんで「過去なんて関係がない」と現在の「からだの状態」をうみだしたもの(あるいは、出来事)を、否定するのか。おかしいだろ。
自分の身にはしょうじなかったので、そんなのは、知らない。自分の身にはしょうじなかったので、そんなことに効果があるのは認めない。自分の身には、しょうじなかったことなので、(他人の身のうえに)効果があるということは、認めない。こういう、詭弁だ。
自分の身のうえに、ヘビメタ騒音が生じなかったから、ヘビメタ騒音の効果なんてないと否定しているだけだろ。自分の身のうえに、ヘビメタ騒音が毎日毎日しょうじなかったから、ヘビメタ騒音の効果を否定しているだけだろ。
それで、「はげました」つもりになっている。おかしいだろ……。この否定は、侮辱だ。ぜんぜん、はげましてない。実際にしょうじている「効果」を否定して、努力だなんだと言う。あまえていると言う。侮辱してんだろ。はげましてないだろ。役に立たない、魔法的な解決法を提示して、そういうことをしないからダメなんだ、そういうことをする努力をしないからダメなんだと、ダメダシをする。はげましてないだろ。侮辱しているだろ。(その方法は)役に立たないわけだから……。そして、役に立たないということを言うと、おこるわけだろ。どっちが子どもっぽいんだよ。どっちが、コミュ障なんだよ。どっちのほうが、コミュニケーション能力に問題があるのか、わかったもんじゃないぞ。「引きこもりならコミュ障だ」という精神病的な思い込みがある人がいる。これは、まちがっている。まちがった思い込みだ。コミュニケーション能力がある人なら、わかるよね。
だれだって、家族によるきちがい騒音が十数年も毎日続いたら、通勤・通学できなくなる。それが問題で、他人と衝突するようになる。その結果、社会的な引きこもりの定義にあてはまるような生活をする場合がある。だいたい、九九・九九%、そういうことをやられたら、そうなるね。ほかの条件がよければ、〇・〇一%ぐらいの人は、たすかるかもしれない。けど、記述するかどうかは別にして、条件なんて、いくらでもある。記述したので、その条件に「注意」がむいて、「条件がある」と認識しただけだ。ほんとうは、無数の条件のなかで暮らしている。注意をむけるかどうかなんだよね。そういう、前段階のしくみがある。
「の」の繰り返しに関しては、指摘しなくてもいい。