たとえば、植物が成長するには、光が必要だ。光がよくあたるということは、重要な条件だ。また、光がまったくあたらないということは、重要な条件だ。もちろん、他にも条件がある。水や空気の質、土の質、温度などが影響をあたえるだろう。
しかし、光が重要な条件であることにはかわりがない。
かりに、昼間は太陽光線がよくあたるところに一〇〇〇〇個のタネを植えたとする。これを光十分条件だとする。そして、太陽光線がまったくあたらないように四角い箱をかぶせたところに一〇〇〇〇個のタネを植えたとする。これを光不十分条件だとする。両方ともタネの種類としてはおなじものだとする。
四角い箱は、水をとおすものにして、水の量に関しては、差が出ないようにするとする。箱にすると、水の量に偏りができるという場合は、箱でなくて、防草シートでもいい。
ともかく、光という条件以外は、おなじにして、おなじ種類のタネを植えるのだ。
その場合、普通なら、太陽光線がよくあたある場所に植えたタネは、よく育つということになる。いっぽう、太陽光線があたらない場所に植えたタネは、ほとんど成長しない。
光……ここでは太陽光線だけど……光という条件は、植物の成長にものすごい影響をあたえているのだ。『条件なんてまったく関係がない』ということにはならない。
ここでも、もしかりに、太陽光線があたらない箱の中にある、一個のタネが、成長したとする。ほかの九九個の種は、成長しないとする。このような場合、一個のタネが、成長したのだから、光という条件は、関係がないと言い切ることができるかどうかだ。
できない。
ほかの九九九九個が成長しなかったのだから、光という条件は関係があると考えるべきなのだ。
ところが、悪条件の数が多く好条件の数が少ない人が、成功したという場合は、ひとりでもそういう人がいれば、『条件は関係がない』と言い切る人たちが、多数あらわれる。
おかしくはないか?
「人間は植物じゃないから、そうだ」……。「人間には意志があるから、意志の力ではねのければいい」……。まあ、人間は植物ではないというのは、認めるし、人間には意志があるということも認める。
けど、だからといって、『条件』を無視していいのかどうか?
なんで、そんなに条件を無視したいのか? 人間の条件となると、植物の条件を認めるようには認めない。条件が結果に重要な影響をあたえるということを、認めないということに、熱意を燃やすのだ。これは、おかしい。おかしな態度だ。こういう態度は、つくられた態度だ。支配者側の洗脳によって、つくられた態度だ。