構造の問題について言っておきたいことがある。好条件の数がおおい人が、支配者層や準支配者層を形成していて、悪条件の数がおおい人が、まあ、底辺のほうにいるという構造があるのではないかということだ。
その場合、好条件多数者が、実際に成功しているので、好条件多数者が、条件を無視して、「XをすればYになる」ということを言うということになる。
そして、悪条件多数者がそれを実行しても、よくならないということとが成り立っているのではないかということだ。好条件多数者も悪条件多数者も、ともに、条件を無視してしまうのである。条件を無視することが、最初に成立している。
だから、条件を無視した話を、好条件多数者がするということになる。逆はないのである。どうしてかというと、「成功」しているのは、好条件多数者だからだ。たとえば、「コツコツ努力すれば、成功する」ということを好条件多数者が、好条件を無視して言うのである。
それを聞くほうは、言った人以外の好条件多数者、好条件悪条件中間者、悪条件多数者なのである。好条件多数者、好条件悪条件中間者、悪条件多数者のほとんどが、それに賛成してしまう。
「コツコツ努力すれば、成功する」ということは、正しいことだと考えてしまうのである。
これが問題なのだ。大問題なのだ。
どうしてかというと、条件を無視しているからだ。実際に影響をあたえているのは、条件なのである。結果に影響をあたえているのは、最初から無視されている条件なのである。
問題ではないか。
「XをすればYになる」という文のなかには、条件なるものがまったく存在しない。「コツコツ努力すれば、成功する」という文の場合、結果は、成功するということだ。
この文のなかには、条件が存在しない。丁寧に「どんな条件だって」「コツコツ努力すれば、成功する」と言うやつまでいる。
成功する方法について記述する人間は、すでに、成功してないといけないという法則がある。もちろん、法則というのは冗談だ。一度も成功したことがない人が書いた「成功する方法」なんて、売れない。だれも興味をもたない。
「そんなら、その方法で成功してから書け」ということになる。
けど、成功している人は、好条件(複数)にめぐまれ人なのである。
そして、その人たちは、自分の好条件については無視して、成功する方法について語ることになる。失敗ばかりの人が、失敗したままの状態で書いた「成功する方法」はうけないということね。
世の中には、悪条件の人が成功したという話もある。そういうはなしは、めずらしいので、メディアにもとりあげられる。
しかし、メディアは、そういう話を、でっちあげることもできる。なので、メディアにあふれている、そういう、不幸な人が成功したという話や、失敗ばかりだった人が成功したという話は、嘘である可能性がある。
そして、ほんとうである場合も、じつは、詐欺行為に非常に近いことをやっていた可能性があり、とても、「見本」としては、役に立たない。こういう、でっちあげ話に、過剰に反応する人がいる。
こういうでっちあげ話がひとつでもあれば、「悪条件(複数)でも成功する人がいる」ということになる。そして、「悪条件(複数)でも成功する人がいる」のだから、悪条件で成功できないなんていうことは、あまえだということになるのだ。
その人の頭のなかでは……。
これも、ある方向に、人々を誘導するために、そういう話をでっちあげはやらせていると考えたほうが現実的だ。DS側の企業は、そういう話をでっちあげるのが好きだ。もう、これは、伝統的にやっている。
例をあげると、たいした証拠もなく、ある起業家をディスることになるのでやめるけど、そういうことがあるのではないかということは考えておいたほうがいい。
「悪条件でも成功した話」「創業者の苦労話」は、うたがってかかる必要がある。こういう話に特別に弱い人たちがいる。この人たちは、宗教団体の宗教に没頭しやすい。
ともかく、ほんとうは、悪条件が影響をあたえているのに、「悪条件で成功できない」ということを言えば、言い訳をしているように思う……ということが問題だ。
これも、誘導されてそう思っている。条件は結果に関係がある。そういうことを無視して、精神論で乗り切ろうとする。けど、それは、きたない悪魔に手をかしていることになる。その場合の精神論というのは、これまた、洗脳のための道具なのである。
ともかく、条件は、結果に影響をあたえる。こっちのほうが、法則性があることだ。どうして、この法則性を無視しなければならないのか。無視しているということにすら気がつかない思考方法はいったい、なんなのか。