たとえば、ブラック企業の社長が「楽しいと言えば楽しくなる」「楽だと言えば、楽になる」と言ったとする。これ自体は、まったく問題がないように見えるだろう。けど、こういうことが流布されると、実際につらい人が、もっとつらい思いをすることになるのである。ブラック企業の社長をCさん、ブラック企業の底辺従業員をDさんとする。Cさんは、別に、ほんとうに、つらい作業をしているわけではないので、つらくない。Dさんは、めちゃくちゃにつらい作業をしているので、つらい。けど、人間は「楽しいと言えば楽しくなる」という考えが正しいとするなら、Dさんは「楽しい」と言えば、つらい作業をしているときも「楽しくなる」はずなのである。人間というのは、そういう動物だということになっている。そして、Dさんは人間なので、当然、あてはまる。Dさんが、きつくてきつくてつらい作業をしているとき、「楽しい」と言えば、楽しくなるのである。連日の作業で疲労がつみかさなり、からだが重たくてしかたがないときも「楽だ」と言えば、「楽になる」はずなのである。これは、魔法的な解決法だ。だれにでもできる。「言えばいい」のだから、だれにでもできる。そして、人間なら、だれにでも、効くのである。効くということになっている。そういう文脈で、Cさんは、楽しいと言えば楽しくなる」「楽だと言えば、楽になる」と言っている。まさに、そういう意味で言っているのである。けど、ほんとうは、Cさんにしても、Dさんと同じ作業をすれば、苦しくなる。つかれる。つかれているのに、無理やり動くと、つらい思いをすることになる。ところが、自分はそういうことしなくていいのである。自分は、ほんとうに、楽なことしかやらないのである。だから、「楽だ」と言って、楽な気持になっている。だから、「楽しい」と言って、楽しい気持ちになっている。やっていることがちがう。ちがうにもかかわらず、その部分は捨象されている。最初から、人間という動物は「楽しい」と言えば楽しくなる動物だという意味で、「楽しいと言えば楽しくなる」と言っているのである。最初から、人間という動物は「楽だ」と言えば楽になる動物だという意味で、「楽だと言えば楽になる」と言っているのである。条件なんて関係がないのである。どういう作業をしているのかなんて関係がないのである。こういうことが、社会全体で繰り返されている。
生まれの格差について言及すると、底辺の人からも、「そんなのはあまい」「くばられたカードで戦っていくしかない」ということを言われる。生まれの格差はでかい。社会全体のなかでは、支配者層がCさんのような役目をして、被・支配者層がDさんのような役目をしているのである。条件がちがう。条件は無視できない。「楽だと言えば楽になる」というようなことは、ほんとうは、条件を無視して言ってはいけないのである。しかし、かならず、条件を無視して言うことになっている。「どんな条件だって」「どんな環境だって」「どんなにつらくたって」と条件を無視する、まくらことばのようなものすらある。これらの言葉が追加されなくても、そういう意味をもっているのである。つまり、条件は、かならず、無視される。しかし、条件こそが重要なのだ。
人間にかかわることを、まるで、物理現象のように、法則性をもったものとして言う場合の弊害がある。「人間なら、XをすればYになる」というような意味合いをもっているものは、すべて、個人の条件を無視している。個人の条件こそが、Yになるかどうかを決定している場合について考えてない。「ある特定の条件が成り立てば、XをすればYになる場合が多い」と言うべきなのである。ある特定の条件が成り立っている人間ですら、そうはならない場合がある。どうしてかというと、じつは、条件をそろえることができないからだ。ある条件だけを、かえるということができないのだ。人間だから、ほかの条件が成り立ってしまっている。ほかの無数の条件が成り立ってしまっている。なので、ひとつだけ条件をかえて、あとは、すべて条件をそろえるということができない。社会生活のなかで、その人なりの条件が成り立ってしまっている。まったくおなじ経験をした人というのがいない。出来事は、個別に、発生している。条件がそろうわけがないのだ。しかし、それを言っては、おしまいだから? なるべくほかの条件をそろえて、こういう条件だけをかえた場合は、どういう傾向があるだろうかということについて調べているのである。……学者やいろいろなことを考える人たちは。ところが、「XをすればYになる」というたいへん断定的な言葉が「ひとりあるき」をしてしまう。これは、支配者層にとっては、いいことだけど、被・支配者層にとっては、悪いことだ。いいかげん、気がつけ。これは、言ってみれば「法則性詐欺」だ。