いやーー。書いてもしかたがないんだけど、ほんとうに、つかれた。意味がない。環境がちがえば、やりようはあった。出来事がちがえば、やりようはあった。けど、もう、つかれたよ。あんまり、興味ないわぁ。なんか、楽しくなれる感じがしない。まあ、いろいろな出来事があって、ぼろっぼろになったわけだけど……。なったわけだけど、回復する感じがまったくない。
「意味がない」っていろいろなことにかんして、意味がないということなんだけど、言うの、やめておく。まあ、そういう気分だってことよ。
まあ、いっくらなんでも、もうちょっと楽しかったなぁ。これは、ないわぁ。ここまで「楽しい気持ち」が死ぬとは……。いろいろ、ありすぎた。ありすぎ。
とくに、親父との介護?(入院・転院の繰り返しと老人ホーム探し)とネズミ騒動で、死んだ。こころが死んだ。ほんとう、ほかの人にはわからないいろいろがある。親がきちがいだと……特殊な気ちがいだと、こころを破壊される。その破壊のプロセスやしくみが、ほかの人にはわからないだけなのであーーる。ほかの人にはわからないだろう。救急車のなかで、いろいろと訊かれるんだけど「そんなの知らないよ」ということばかりだ。救急隊員の人は「親子なら知っているはずだ」「一緒に住んでいるなら知っているはずだ」という前提でものを言ってくる。だから、普通の水準にあわせるのがむずかしい。
きちがい親父は、よそでは、普通の人としてふるまうことがあるのだけど、それだって、「ふあんにみちたもの」だ。そして、「そういうふうにできるなら、うちでもそうすればいいだろ」という感情がわきがある。これは、小さいときからそうだ。きちがい親父は、別に、使いわけているつもりはないのである。ほんとうに、きちがい的な父親がいない人にはわからないなんだよ。きちがい的父親と言ってもいろいろなタイプがあるだろうから、限定しておくと「親父のようなきちがい的な父親」がいない人にはわからない。たとえば、救急隊員の人もをわからないし、いちおう、血のつながりがない世帯がちがう「おじいちゃん」にもわからないのである。