いま、服を六十度のお湯につけているところだ。あとで、洗濯する。
このさき、どうするかな?
全部がめんどい。この特殊な洗濯だって意味があるのかどうかわからない。というのは、どうも、ダニじゃなくて、蕁麻疹である可能性があるからだ。けど、ダニである可能性もあるんだよな。まあ、こういう洗濯をしても、それで一回着たらおしまいだから、部屋が片づくわけじゃないわけ。けど、部屋を片づける必要がある。
まあ、元気だったらとっくに引っ越しているんだけどなぁ。どうしても、チカラがでない。
ある程度片づけないと引っ越せないんだよ。で、本をどうするかということがまず問題になってしまう。
「もう、人生、どうでもいいか」という感じもしないではない。一日に何回かそう思う。けど、今後の世界を見てみたい気持ちがある。二十年後、世界はどうなっているのか? 三十年後、世界はどうなっているのか? 興味がある。これは、だいぶちがうんだよ。たとえば、一九八〇年から二〇二〇年までの四十年間とは、まったくちがう変化がおとずれるわけだよ。十年で四十年以上の変化があると思っているよ。本質的な変化だからね。
女の人のことも、どうでもいいかなという感じになるときはある。そりゃ、むかしとは、感情がちがう。からだの老化ぐあいもちがうしね。けど、からだよりも、感情のほうが、ちがう。けど、さみしくないかというと、さみしいときもある。「ヘビメタ騒音なしで、あのころ、あの子とつきあいたかったなぁ」と思うことがある。あのころ、なんだよね。けっきょく……。
ともかく、ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。で、ヘビメタ騒音の影響はほかの人には、まったくまったくまったく、わからない。わからないんだよ。もし、つきあう人がいたとしても、その人にも、わからないと思う。そうなると、いろいろな問題がしょうじる。もう、しょうじてきた。人間関係上の問題が、どうしたって、しょうじるんだよ。相対的に言って、ほかの人よりは、理解が、ある人とも、もめてしまう。じゃあ、「だまっておく」という手をとった場合、それでも、問題がしょうじる。 「適当に言うけど、そんなには言わない」という手をとったとしても、問題がしょうじる。ぼくのなかには、言うか、言わないかにかかわらず、ある。そうなると、たとえば、その相手に直接言うようなことではなくても、ぼくが、ひとりで、どなっていたりすると、その姿を相手が見た場合、いろいろと思うことがあるだろう。じゃあ、うちがわでどんなことを考えても、どならないでおくという手をとれるかというと、とれないんだな。感情の爆発がある。ヘビメタ騒音に関連したいろいろなやりとりを思い出してしまう。それは、ヘビメタ騒音をかかえた状態で何十年間もすごしていると、そうなる。気ちがい兄貴とのやり取りだけではなくて、それに関連した、他人とのやり取りだってあるわけだから……。思い出したら、腹をたてて、あのとき言いたかったことを、どなるときだってあるわけだよ。ほんとうに、ヘビメタ騒音のことでどんだけなめられたか。なめられたことを言われたか。腹がたつね。ヘビメタ騒音で、能力をなくして、勉強時間もなくして、いろいろとなめられたことを言われることになる。きちがいヘビメタのなかで勉強することはできない。これ、みんなわかってないけど、ほんとうに、できない。やろうとした分だけ、マイナスになってしまう。きちがいヘビメタの記憶が、勉強内容についてしまう。あのきちがいヘビメタ騒音なかで、見たもの、読んだもの……無理して、見たもの……無理して読んだものに、ヘビメタ騒音が鳴っていたという記憶がついてしまうのだ。ヘビメタ騒音が鳴っているときに読んだやつだという記憶がついてしまう。それが、無意識的な障害になる。それから、いま文では、読んだものと書いたけど、ヘビメタ騒音のなかで読むってことが、どういうことなのか、きちがい的な態度で、きちがい的にでかい音で鳴らしているきちがい騒音を経験した人じゃないわかない。そもそも、態度がおかしいのだけど、その態度のおかしさに対する怒りも、やっぱり、関係している。音はでかい。音はでかいけど、でかさのほかに、鳴らしている相手に対する怒りが、実際に鳴っている音に対する怒りに影響をあたえてしまう。
ヘビメタ騒音が〇・〇〇〇〇一秒で、記憶内容を流してしまう。強制的に、流してしまう。記憶が残らないまま、文字をおっているということになる。これが、ヘビメタ騒音が鳴っているときの読書だ。ただたんに、教科書を読むことだってできなくなる。そして、読んだ内容がよくわからないまま、読んだ内容に拒否反応がでてしまうのである。なんか、意味がわからないまま、がんがんがんがん鳴ってるなかで、文字だけおっているというとになってしまう。読むのではなくて、ただ見ているだけ。きちがいヘビメタががんがん鳴っているつらい状況のなかで、文字を見ているだけ。追っているだけ。そういうことになってしまう。これ、本来もっている記憶力とか、本来もっている理解力とか、そういうものが、一切合切関係がない世界の話だ。そして、『いやな感じ』だけが残るということになってしまう。がんがん鳴っていて、内容が頭に入ってこない状態で読んでいたって、つかれる。はげしく、つかれる。きちがい兄貴と、きちがい兄貴が鳴らしている実際の音に対して腹をたてて、消耗してしまう。つかれきってしまう。そして、怒りというのは、一種の興奮なんだけど、怒りをがまんして、椅子に座って、教科書を読もうとしているわけでだよ。そういう、一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、六時間四六分であるわけ。平日はそれで、休日だと、七時間、八時間、九時間、一〇時間、十一時間、十二時間、十三時間とのびてしまう。平日の遅れを取り戻すとか、むりなんだよ。けど、実際にやられているわけではない人……は、「平日の遅れなんて、休日に取り戻せばいいじゃない」と言うわけ。「ヘビメタ騒音が鳴っているから勉強ができないなんて、あまえだ」と言うわけ。あびてないくせに、言うわけ。