楽しいと言えば、どんなつらいときも、楽しくなる……とする。そうであるならば、そうしないやつが悪いということになってしまうのである。
出来事とは関係なく、不愉快な気持になったやつが悪い。条件とはまったく関係なく、つらい気持ちになったやつが悪いということになってしまうのである。
「人間」というものは「楽しい」と言えば、どれだけつらいときでも、「楽しくなる」動物だ……。この前提がおかしいのではないかと思う。
もちろん、「自分は、どんなつらいつきでも、楽しいと言うとほんとうに楽しくなる」とAという人が言った場合、自分のことにしか言及してない。「人間は」なんて言ってない。けど、いまの世の中というのは、条件が個人によってちがいすぎる世の中なのである。だから、ほんとうはつらい思いをしてない人が、「自分は、どんなつらいつきでも、楽しいと言うとほんとうに楽しくなる」と言ってしまうと、問題がしょうじる。もともと、生まれの格差・上の人と、生まれの格差・下の人が経験する「つらさ」の量がちがう。「つらさ」の質がちがう。「つらさ」の頻度がちがう。その場合、「どんな条件でも」とは言えない。ところが、条件を無視して、わかったようなことを言うのがはやっているのでそう言ってしまう。これは、カルマ理論とおなじ役割をする。生まれの格差・下だからこそ、つらい思いをしている人が、ただ単に、「自分のご機嫌を取ることが下手な人」になってしまうのである。生まれの格差・下だからこそ、つらい思いをしている人が、ただ単に、「自分のご機嫌を取る能力がたりない人」になってしまうのである。能力の問題になってしまう。そうなると、能力がないやつが悪いということになってしまうのである。みんな、おなじ量のつらさを経験している……けど……人によって……自分のご機嫌を取る能力がちがうので……自分のご機嫌を取る能力がない人は……つらい思いをすることになるのである。それは、「能力」のちがいだからしかたがないというとになってしまうのである。けど、おなじ量のつらさを経験しているという前提がまちがっているのである。しかし、あたかも、「おなじ量」のつらさを経験しているのだけど、自分のご機嫌を取る能力が高い人は、つらく感じないで、楽しく感じることができるということになってしまうのである。そうなった場合、やはり、能力がないやつが悪いんだということになってしまうのである。それなら、「つらい思いをさせた人」は、なんなんだということになる。「つらい思いをさせた人」は一切合切、責任を追及されないのである。ただ単に、「能力がない人が悪い」ということになってしまうのである。つらい思いをさせられたほうの処理能力のちがいに、すべてが、おとしこまれてしまうのである。ある出来事の特殊性、ある出来事の条件……そういったものが、すべて水に流されてしまう。「どんなにつらいことが起こっても」ということは「どんなにつらい思いをさせられても」ということを含んでいる。なので、両者の関係性は、そこでは、捨象されてしまうのである。「やったほう」と「やられたほう」……このちがいはおおきい。「やられたほう」にだけ責任をかぶせるのである。そして、処理できない……つらく感じるなら……つらく感じるやつが悪いということになってしまう。どうしてかというと、「こうすれば処理できるのにこうしないやつが悪い」ということになるからだ。能力のちがいは、個人の問題だから、その個人が責任をおう。たとえば、AさんがBさんの能力をどうにかすることができない……。それならば、Bさんの問題だからBさんの能力だけの問題だというとになってしまうのである。「自分のご機嫌を取る能力が低いからダメなんだ」ということになってしまうのである。出来事とは関係なく、「自分のご機嫌を取る能力」だけが問題になる。けど、実際には、出来事が影響している。