きちがい親父がかかわってきたときの、不愉快さが並じゃないのである。不愉快さが並じゃない。こんなの、きちがい的な父親にたたられなければわからない。常に、頭がおかしいことを言いやがって。常に、こっちがこまるようなことをしやがって。常に、まちがいやがって。
「かかわるな!!」「かかわるな!!」と絶叫しても、かかわってくる。きちがい死神。きちがい疫病神。こいつがいると、どれだけ、問題が起こらないはずのことでも、問題が起こる。凸凹な道で転ぶのわかるけど、平たんな道で転ぶのは、わからない。たとえば、そういうちがいがあるとす。きちがい親父がかかわると、平たんな道でも、転びまくることになるのだ。トラブルの連続。きちがい的な発想。きちがい的な意地。きちがい的な言い方。
これ、きちがい的な家族がいる家の人じゃないとわからないと思うけど、ぜんぜんちがうのである。普通にしていてくれればいいのに……。きちがい的な意地で、かかわってくる。で、きちがい兄貴とおなじなんだけど、「悪気」がないんだよね。この、気持ち悪さが、わからないだろう。わかないだろ。普通の家に生まれ育った人は、この気持ちわるさがわからないだろ。わかるわけがない。
きちがい的な人間が、悪気もないのに、かかってくるという、理不尽さが、キミたちにはわからない。影響? あるよ。あるに決まっているだろ。憤慨だよ。きちがいがかかわったら、こっちが、損傷する。気持ちが無茶苦茶になる。きちがいは、きちがい的な理由で怒っているとき、きちがい的な理由で怒ってるとは思ってないんだぞ。
「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」と、絶叫しまくっても、かかわってくる。ぜんぜん、こっちの気持ちがわからない。頭がおかしいレベルでわからない。子供が、「かかわるな!!」と二〇回も、三〇回も絶叫していたら「かかわってほしくないんだな」というのが、普通はわかるだろう。けど、わからないのだ。じゃあ、どうして、「かかわるな!!」と絶叫しているかというと、それは、いままでの積み重ねがあるからだ。これも、兄貴のきちがいヘビメタ騒音とおなじで、やっているほうは、なにもやってないつりなのである。どれだけ、こういう態度で、こころが破壊されるかわからないだろ。
診察室という上限関係がはっきりしたところで、上の人が、下の人の言っていることの影響をうけなくてもいいということではないんだぞ。けど、アドラーは、そういうふうに考えているんだよ。 一回だけパーティーであった人が気ちがいだった。けど、気にしない。おなじところに帰るのかよ。普段、いっしょに暮らしているのかよ? 社会的に、生物的親であるという立場なら、まわりの人も、社会的に親であると思ってしまう。それなら、他者の思い込みが正しいというとになる。そして、親子ならこうだという、一般的認識が生まれる。けど、一般的な認識とはちがう親なのである。これがわからないんだよな。まあ、いずれにせよ、一回だけパーティーであった人と、親とは、ちがうんだよ。どうして、そういう関係を無視して、「どれだけがみがみ(相手が言ってきても)影響を受けないということは可能だ」ということを言うのか?
これ、アドラーの思い込みのほうが問題なんだぞ。関係と書いたけど、そういう条件のちがいを無視して、『影響をうけないということは可能だ』と言うことは、本来は、おかしい。まちがったことを言ってる。「Xをすれば、Yになる」というようなことを言う人も、『条件』というものを無視してい。けど、『条件』がめちゃくちゃに重要な影響をあたえるのである。
これ、しくみもちがうし、言っていることもちがうのだけど、ある意味、条件の無視というのは、きちがい親父のきちがい発言やきちがい親父のきちがい発想と、似ている部分がある。言ってみれば、相似だ。一〇〇〇〇〇倍ぐらいちがうけど、似ている部分がある。
条件の無視と頑固さという点だけでしか似てないけど、条件の無視と頑固さという点だけは、アドラーときちがい親父は似ている。これ、普通の人なら別にどうでもいいことだけど、きちがい家族にやられた人にとっては、無性に腹がたつことなのである。まるでわかってないなぁ。