きちがい親父にとって、自分の幼児(幼児期のこども)というのは、なにかというと、どれだけあたりちらしてもいい、「敵」なのである。一種の敵。自分の感情的な爆発をぶちまけていい、道具のようなものなのである。で、これと、「感覚器の書き換え」は、ちがうことなのである。だから、これは、おなじものではない。なので、きちがい親父の場合は「感情のぶちまけ(あたりちらし)」と「感覚器の書き換え」が両方とも、成り立っているけど、ひとつずつ、成り立っているきちがい的な親もいると思える。ようするに、「あたりちらし」はあるけど、「感覚器の書き換え」はないきちがい的な親と、「あたりちらし」はないけど、「感覚器の書き換え」はあるきちがい的な親と、「あたりちらし」があり、「感覚器の書き換え」もあるきちがい的な親の三タイプがいると思う。けど、「あたりちらし」と「感覚器の書き換え」は「系をなしている」と言える部分もある。「あたりちらし」があり、「感覚器の書き換え」もあるきちがい的な親の場合、このふたつは、系をなしている。まざって、あらわれるから、こまるんだよな。
* * *
それから、どれだけやっても、悪気がないというところが、またまた、こまるところなのである。やられたほうがこまる、やっているほうの「性格」だ。これ、こまるんだよ。兄貴だって親父だって、まったく「悪気がない」んだぞ。これ、こまるんだよ。