「つまらなくなる」ように追いつめられている。人生のなかで発生した「できごと」と関係なく、いまの感情が「ある」わけではない。いまの感情が成り立っているわけではない。いまの感情が、できあがっているわけではない。ちゃんと、いまの感情の「こんきょ」がある。人生の経験とは関係ない感情なんてあるわけがないだろ。実際の経験がものをいう。実際の経験とは関係がない感情? 実際の経験とは関係なく「明るい感情」をもてる? 実際の経験とは関係なく楽しくなれる? 頑固にきちがい親父が否定したときの、感情が残っている。頭がおかしい顔をしていたのを覚えている。感情が残っているのは、俺。頭がおかしい顔をしていたのは、親父。たとえばの話だけど、「ネズミ対策工事をしよう」とこっちが言って、きちがい親父が否定したときの顔と、「くさいから、魚の切り身をかたづけてくれ」とこっちが言って、きちがい親父が否定したときの顔が、おなじなのである。これも、たとえばの話だけど、俺が「しずかにしてくれ」と言ったときの、きちがい兄貴の顔つきと、俺が「くさいからかたづけてくれ」と言ったときのきちがい兄貴の顔つきがおなじなのである。おなじ。おなじ。おなじ。あいつらのああいうときの頑固な顔つきと言ったら、ない。ほんとうに、こっちの側に、感情の爆発がある。ほんとうは、その場面で、なぐり殺してやりたかった。なぐり殺したいのをがまんしているんだぞ。そういう感情と、感情のがまんが……人間らしい気持ちをうばうのである。「楽しい」と感じるこころをうばうのである。「こんきょ」というのがあるんだよ。きちがい家族と一緒に暮らしていて、さまざまなトラブルがあるのに「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなるか? ぜんぜんちがうじゃないか。「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなると言っているやつと、俺の環境がちがうじゃないか。「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなると言っているやつが、人生で経験したことと、俺が人生で経験したことはちがうじゃないか。
「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなるということが、事実だとしよう。法則性が成り立っていることだとしよう。その場合、たとえばの話だけど……「楽しい楽しい」と言わないからいけないんだ……というような「せめ」がしょうじるのである。「じこせきにんじこせきにん」「じぶんのかんじょうにせきんにをもて」……。「楽しくなれるのに、楽しくなろうとしないからダメなんだ」とダメ出しをしてくる。つまらないね!! つまらないね!!
こういうやつらは、自分がしていることがわかっているのか?
きちがい家族にやられると、きちがい家族にやられたことがないやつから、へんなことを言われるのだ。しかも、そいつらは、そのへんなことが、絶対の真実だと思っている。こんな、生きにくい世の中、あるか?
「どれだけヘビメタにやられたって、通勤できる」というのも、おなじだ。どうして、俺とおなじぶんだけ、きちがいヘビメタにさらされたことがないやつが、そういう「わかったようなこと」を言うのか? こんなの、侮辱。こいつらだって、俺とおなじ騒音生活を十数年にわたってすれば、おなじような状態になり、通勤できなくなるのに、それがわかってない。一〇〇%、そうなるね。わかってないだけのやつが、えらそうなことを言う。むかつくね!! むかつくね!!