きちがい兄貴がきちがい兄貴でなかったら、おとうとが自分の騒音でこまっているということがわかるんだよ。どれだけ、否定したって、わかったらわかるんだよ。弟が自分の騒音でこまっているということを知っているけど、どうしても鳴らしたいので鳴らす……ということなら、理解だけはできる。
けど、これが、そうではないのだ。
どれだけ言っても、わからないまま鳴らす。きちがい兄貴にとって、「おとうとが自分の騒音でこまっている」ということは、予感のようなものでしかないし、その予感は、すぐに、忘れ去られてしまうのである。
言われたときだけ「予感のようなものとして」感じるけど、それは、内容を理解したということではない。
内容を理解して、はねのけたわけではないのだ。
なんとなく、不愉快なことを言われたということしか、感じない。
「おとうとが自分の騒音でこまっている」ということではなくて「なにか不愉快なことを言われた」ということなのである。きちがい兄貴が理解しているのは……そういうことだ。
だから、きちがい的に発狂して、発狂して発狂して発狂して、はねのけたら、おしまいなんだよ。なにものこらない。あたまに残る内容がなにもない。
だから、「おとうとが自分の騒音でこまっている」というような理解はしょうじない。まったく、しょうじない。「こまっているから、しずかにしてくれ」と言ってきた……ということも頭に残らない。
そのままなのである。「そのまま」なのである。まるで、まったく、注意されなかった状態で、鳴らし続ける。まさしく、毎日、毎分毎秒、それなのである。
だから、本人は、悪気がないままなのである。こっちがどれだけ、高校におちていても、それとは関係なく、絶対に十一時間鳴らせるなら、絶対の意地で、一秒もゆずらずに、自分が満足できる音で鳴らすのである。自分が満足できる音というのは、必然的に、きちがいしか鳴らさないようなでかい音なのである。
きちがいだから、「しずかな音で鳴らしている」「小さな音で鳴らしている」「普通の音で鳴らしている」と思って、絶対に絶対に、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないのである。
これも、普通の人なら、でかい音で鳴らしているということ自体は、感覚しているけど、でかい音で鳴らしたいので、でかい音で鳴らしているということを認めないで鳴らすということになるわけだよ。
ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、感覚のレベルで、でかい音で鳴らしているということを知らないわけ。こういうきちがい的なしくみが成り立っている。このきちがい的なしくみは兄貴にとってだけ都合がいいしくみだ。
そして、このしくみは、ほかの人には、理解できないしくみなのである。
だから、ほかの人は、エイリさんはでかい音だと言っているけど、ほんとうは、たいしてでかくない音で鳴らしているという可能性について考えてしまう。けど、ちがうのだ。きちがい兄貴がきちがいだから、そうなっている。
この、普通の人が考えると、考えまちがいをしてしまうようなレベルで狂っている人というのは、普通の人にはわからないことをやる人なのである。