すべて、自分のせいなのか? すべて、他人のせいなのか?
そもそも、個別の出来事について考えないというのがおかしい。ある出来事に関しては、他人(個別の他人)のせいであり、別のある出来事に関しては、自分のせいであるという認識は成り立つ。どうして「すべて」なのか? どうして、「すべてが、他人のせい」であったり「すべてが、自分のせい」であったりするのか? おかしいでしょ。どうして、個別具体的な出来事に関して考えないのか? 個別具体的な出来事を考えずに、集合的な「出来事」を考えて、「すべては自分のせい」と考えるのはおかしい。個別具体的な出来事を考えずに、集合的な「出来事」を考えて、「すべてが他人のせい」と考えるのはおかしい。
「すべての二極思考」というべきものが成り立っている人がいて、その人は、「すべて、自分のせいである」と思ったり、「すべて、他人のせいである」と思ったりする。それから、「人のせいにする」というのは、ほんらい、その他人の責任ではないことについて、その他人の責任だと考えることを意味しているので、もとからその他人の責任である場合は、「せい」という言葉を使うべきではない。
責任の所在をあきらかにして、責任を追及しなければならないことだってあるよ。そうしないと、悪が増える。「責任を追及しなければならないこと」の「こと」というのは、出来事のことだ。悪いやつがやり勝ちして、味をしめると、また悪いことをする。社会全体のなかでトラブルが増える。社会全体のなかで被害者が増える。
「すべては自己責任」という考え方は、悪いやつが悪いことをしたとしても、悪いことをされた人の責任だという考え方にいきつく。これ自体が、悪だ。そして、「責任の所在をあきらかにして、責任を追及している人」を「人のせいにしている人」だと言うこと……は、もっと悪いことだ。それこそ、発言の責任がある。
それから、効率の問題ではないということについて言っておきたい。これは、効率の問題ではなくて善悪の問題だ。道徳の問題なのである。それから、かりに効率がかかわっているとした場合、再犯防止に役立つのだから、効率はいい。悪い人が、悪いことを繰り返すことを、そこでやめるわけだから、「役に立った」と言える。「責任の所在をあきらかにして、責任を追及する」ことは、未来の被害者を救うという効果がある。ちゃんと、役にたっている。未来の被害者というのは、もし、責任追及をしなかった場合の「未来の被害者」だ。
いま、政府は、国民に対して、ひどいことをしているのだから、ちゃんと責任追及したほうがいい。責任追及をしないと、さらに、行為がエスカレートする。
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あれを打っちゃった人は、政府の責任、厚労省の責任を追及したほうがいいよ。だましたわけだから……。