ネズミの空気穴をあけてやらなかったのが、気になってる。すでにネズミシートの上で死んでいるのは、別に構わないのだけど、まだ、生きていて、それで、窒息死したというのがいやなんだよな。窒息、させたくなかった。だから、酒糟のついた魚を一日に二十三時間、出しておくのはやめてくれと、毎日、言ったのに、やめてくれなかった。こっちがたのんでないのに、「やってやる、やってやる」と言って、なまゴミを、毎日、物置のところにもっていくのも、やめなかった。これ、なんの意味があるんだ?と言いたくなるようなことなのだけど、きちがい親父がある日、お勝手にある生ごみを、毎日、物置に置いてある生ごみの袋に入れてやると言って、きかなかった。で、俺がたのんだことじゃないんだよ。けど、これも、「お勝手になまゴミの袋がおいてあるのはいやだろ」という考えにとりつかれて、「やってやるやってやる」と言うようになった。これ、俺のためにやってやるという気持があるのだ。俺が、どれだけ「やらなくてもいい」「そんなことは、やらなくてもいい」と言っても、本人が……親父本人がやりたくなったら、やってしまうのだ。で、この、台所に置いておいても、いい、なまゴミを毎日、物置にもっていくというのが、問題行為だった。そのときは、きちがい親父が勝手にやりたくなったことで、こっちは、ぜんぜんありがたくないのだけど、特に問題はないかなと思ってやらせてしまったのだけど、それがまずかったのだ。ようするに、物置にネズミがくるようになった。で、この、物置にネズミがくるようになったのは、親父が、酒糟のついた魚を、ほぼ一日中、テーブルの上に出しっぱなしにするという儀式を行う、まえだ。これも、へんなこだわりがあって、どれだけ言ってもやめないのである。「(酒糟がついた魚がおいてあると)におうだろ」とこっちが言うと、「におわない!!におわない!!」と鼻が正常なら絶対に言わないことを言って、自分の『きちがい的な願望』を押し通そうとする。態度がおなじなんだよ。物置になまごみをもって行ってやると言い出して、なまゴミをもって行くということも、テーブルの上にほぼ一日中、酒糟のついた魚を出しておくことも、おなじなのだ。そして、きちがい兄貴が、ヘビメタをでかい音で鳴らして、でかい音で鳴らしているということを、絶対の意地で、認めないときも、おなじことが成り立っている。頭がおなじなんだよ。
ともかく、こんなに気になるであれば、空気穴をあけてやればよかった。まあ、空気穴をあけてやったことで、ぼくが、病気になった場合は、「あけないほうがよかった」と思うわけなんだけどさ……。
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