きちがい兄貴は、「相手がこまる」ということをまったく想像できない人間なのである。自分の願望のほうが、一〇〇万倍ぐらい、大切なのである。
ほんのちょっとでも、自分が「ほんとうに」ゆずるとなったら、いやなのである。
鉄の意志? ダイヤモンドの意志? きちがいの意志で押し切る。何度も言うけど、きちがい親父もおなじだ。きちがい親父が、兄貴がこまることをしたとき、兄貴は怒っていた。
「こういうふうにこまる」ということをどれだけ説明しても、きちがい親父がきちがいの意地で認めないのである。発狂して、きちがい親父がやりたいようにやるのである。
で、本人がやられている場合は、相手がやっていることがひどいことだということがわかるのだけど、本人がやる場合は、相手がどれだけなにを言っても、きちがいの意志で押し切るということになってしまう。おやじとおなじ態度で、おやじとおなじことをする……。
兄貴は、おやじとおなじい態度で、親父とおなじように、やりきる。そして、兄貴は、やりきったあとも、やったつもりがしょうじない。本人がやりきったと同時に、やりきったということを忘れてしまう。
これも、親父とおなじだ。
おやじも、本人がやりきったと同時に、やりきったということを忘れてしまう。なので、「ぜんぜん関係がない人」になってしまう。主語? 親父と兄貴は、やりきったあと、やりきったということを忘れて、そのことと関係がない人になってしまうのである。
本人がきちがい的な意地でやったのに……顔を真っ赤にして怒り狂って、不退転の決意でやったのに、やってないことになってしまうのだ。まったく関係がない人になってしまうのだ。
意識では、まったく関係がない人になってしまう。そういうことが、同時に成り立っているから、つねに「悪気」はないのである。
常に、関係がいない人なのである。自分がやったんじゃないということになっているのである。
そして、「おまえがやった」と言われたら、「おまえがやった」と言われたとたんに、そういう状態になってしまうので、これも、怒り狂い勝ちして、認めないのである。
どんなに明らかなことでも、『自分がやったことじゃない』ということになっているのである。そのきちがい的な認識を、言葉で「こっちがつくがえす」ということができないのである。
だから、ぶっきらぼうに、暴力的に、きちがい的に、つねにつねに、プロセスや結果が「へんなことに」なってしまうのである。これは、やられたほうからすると、「空間がおかしい」と感じられるようなことなのである。これは、やられたほうからすると、猛烈に腹がたつことなのである。
だから、そういうことに関して、「認知上」影響をうけないということがない。ところが、アドラー信者のように、「(相手が)どれだけガミガミ言っても、自分が影響をうけないことは可能だ」というようなことを言うやつが出てくる。影響は、うける。
かりに、どれだけ、意識的にがんばって、影響をうけないようにしても、影響をうける。それから、たとえば、きちがい親父が門の前で、作業をはじめてしまって、門を通れないということがある。普通の人は「言えばいい」と言うけど、「言うと」きちがい的な意地で怒って、通してくれないのである。
けど、これがまた、「通してやらなかった」ということにならないのである。きちがい親父の意識のなかでは、そういう出来事自体が、怒って、勝ったときに、なくなっている。
怒って、絶対の意地で通してやらなかったのだから、通してやらなかったという認識は必要だ。普通なら、必要とかそういう問題ではなく、認知認識システムが正常なら、認識してしまうことだ。
ところが、認知認識システムが異常なので、「通してくれ」と言われたけど「通してやらなかった」というこど認識されないのである。この場合も、「言えば」通してくれると思っている人たちには、想像もできないことなのである。
そして、さらに、「通してやしなかったら、通してやらなかったということをおぼえているはずだ」と思っている人たちには、想像もできないことなのである。
想像もできないことなのか、想像できることなのかは、おいておいて、実際に同じ家に住んでいて、親が門を通してくれないとなると、親のやったことの影響をうける。
アドラー信者は例として、「どれだけ相手がガミガミ言ったとしても、影響をうけないことは可能だ」ということを言うわけだけど、いっしょに住んでいれば、どれだけ影響をうけないようにしようと思っても、影響をうけることがある。
さらに、親であれば、親が判断して(こどもにこどものものを)買ってあげるわけだから、子供側の人間は、そういう親の影響をうける。親がハンダゴテを買ってくれなかったとしたら、ハンダゴテがないわけだから、ハンダゴテがないということの影響をうける。
だれか相手が言ってくることを無視していれば、その人の影響をうけないということではないのである。実際にハンダゴテをもってないということになる、ハンダゴテをもってないということの影響をうける。