おたがいさま教の人は、やったことの強弱をまったく問題にしないのである。たとえば、AさんとBさんがいたとしよう。Aさんが、Bさんに、軽く挨拶をしたのだけど、Aさんが、Bさんの挨拶に気がつかなかった。怒ったBさんが、Aさんを、ナイフでめった刺しにした。こういう場合、AさんとBさんは、おたがいさまなのだろうか? Aさんも、挨拶を返さなかったし、Bさんもナイフでめった刺しにしただけだ。Aさんがやったことと、Bさんがやったことは、つりあっている。だから、おたがいさまだ……こういうふうに考えるのだろうか?
おたがいさま教の人が考えている「人間」というのは、抽象化された人間だということは、すでに指摘した。具体的な二者関係については、まったく考えてないのである。「人間」と言ったら、人間なのである。Aさんも、Bさんも人間なのである。AさんもBさんも人間だから、おたがいさま。
「だれだって、全力ではじめての人生を生きているだけなので、おたがいさま」「だれだって、人に迷惑をかけることがあるのでおたがいさま」……こういうことを言っているとき「だれか」と「だれか」は抽象化された「人間」なのである。
たとえば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんがいたとする。のAさんも挨拶をかえさなかったのだから、Bさんに対して話いることをした。CさんとDさんは、あったことがない人間だ。あったことがないだけではなくて、SNSなどでも、まったく知らない人間同士だ。ほんとうに、まったく、CさんとDさんのあいだには関係がなかったのである。
こういう場合、「おたがいさま」だろうか? 「おたがいさま」ですらないのではないだろうか? 関係がないから、おたがいさまと言えるような間関係がしょうじなかった。CさんとDさんは、おたがいさまなのだろうか?
たとえば、BさんがAさんをナイフでめった刺しにしたとする。その結果、Aさんが死んだとする。Cさんは、Aさんの父親だったとする。その場合、AさんとCさんは、「おたがいさま」なのだろうか?
AさんがCさんにあたえた影響と、CさんがAさんにあたえた影響はつりあっているのだろうか?
こういう具体的な二者関係を抜きにして、「人間」なるものについて考えて、「人間はみんなおたがいさま」だと決めつけて、二者関係における行為の質を問わずに、二者関係においても「おたがいさま」だと決めつけてしまうのは、問題がある行為なのではないか?
二者関係における行為の質を問わない理由は、その二者が「人間」だからなのである。「人間」だからおたがいさまなのである。おかしいとは思わないのか?