「受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいるけど、あれは、ペテンだ。「受け止め方をかえればいい」と言っている人たちだって、「受け止め方をかえよう」とは思わない場面がたくさんある。
たとえば、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判された場合は、おこるという反応をする場合が多い。受け止め方をかえればいいのだから、いい話を聞いたと、受け止め方をかえて、よろこべばいいのだ。「勉強になった」と思って、感謝すればいい。ところが、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判された場合は、おこる。
たとえば、ある人は、「つま先をタンスにぶつけたときに、頭をぶつけなくてよかった」と思うらしい。つま先をぶつけることよりも、頭をぶつけることのほうが、いやなことなので、つま先をぶつけたときは、頭をぶつけたことと比較して、つま先をぶつけたという『いやなこと』をそんなに『いやなことに』しなくてもすむという、説明をする。
「道路で、ころんだときは、車にひかれなくてよかった」と思うらしい。「ころんだので、ひざがいたい。しかし、それは、車にひかれるいたさとくらべたら、なんでもない」というようなことを、説明する。
けど、この人、ほかのことでは、けっこう軽くおこったりする人なのである。ちょっとでも、自分の考え方を否定されるとおこる。「受け止め方をかえればいい」のだから、おこる必要がない。
この人は学生時代、教師が右をむけ言ったら、左むいて、教師が左をむけと言ったら、右をむくような性格だったらしい。学生時代だからそうなのか?
ちがう。
今でも、あまのじゃくなところがあり、人にさからうようなところがある。
ほかの人から指図されたときには、絶対に、ほかの人の指図にはしたがわず、指図されたこととは、ちょうど逆のことをやるとという性格は、まったくなおってないのである。むしろ、そういう性格が強くなっている。
「この人は、なおす必要性も認めてない」と、ぼくは思う。
人に指図されたとき、かっとなっておこらずに、受け止め方をかえて、指図されたとおりにするということは、この人の場合……ない。この人の言うとおりに、「受け止め方をかえればよい」のであれば、受け止め方をかえて、したがえばよいのである。ところが、本人は、そうしない。
はっきり言ってしまえば、この人が「受け止め方をかえればいい」ということを説明するときの『例』は、選ばれた『例』だ。
この人が、普段からそう考えているわけではないのである。この人が、すべての事柄に関して「受け止め方をかえればいい」と思って行動しているわけではないのだ。
ところが、ひとつ、ふたつの『例』を一般化して話すというくせがある。
ほんとうは、自分だって「受け止め方をかえればいい」と思って行動しないときがある。
むしろ、例外なのである。「受け止め方をかえればいい」と思って行動することのほうが、例外なのである。
普段は、指図されたら……この人が普段感じるように……おこって、指図にしたがわない。思い方をかえればいい……受け止め方をかえればいいと思うような出来事というのは、むしろ、例外的な出来事なのである。
しかし、二項目文のように、法則化して言ってしまう。『法則』であるかのように言ってしまう。権威がある人がそういうことを言った場合、言われたほうは、多数の出来事において、その『法則』を成り立たせようとすることになる。もし、「あの人の言っていることは正しい」「自分も、そういうふうにしよう」と思ったなら、日常的な出来事においても、それを当てはめようとするのである。
けど、言っておくけど、当の本人は、例外的なことをのぞいて、日常的な出来事において、それを当てはめようとは、してない。ほんとうに、意識にのぼったところだけ、そうしているだけ……。そういう関係性が意識にのぼったときだけ、注意して、そうしている。
「そういう関係性が意識にのぼったとき」というのは、どういうときなのかとうと、「そういうふうに思う条件がそろっているとき」なのである。おわかりかな?
指図されて、怒っているときは、そういうときではないのである。条件が成り立ってないときなのである。条件が成り立ってないときのほうが、実際には、多い。本人が、意識してないだけだ。
自分がおこったときこそ、「受け止め方をかえればいい」ということを実行すればよいのだけど、自分がおこったときは、「受け止め方をかえればいい」ということは実行されてない。普通におこる。普通に、おこったときの反応をする。
本人にしてみれば、腹をたてるだけの、理由があるのである。
あるいは、腹をたてるだけの理由があると「当の本人が」思っているのである。受け止め方をかえれば、腹がたたなくなるのに、「受け止め方をかえる」ということを思い出さずに、普通に腹をたてている。
ほんとうは、本人にとって腹をたてるだけの理由があるときこそ、「受け止め方をかえる」べきなのだ。「受け止め方をかえる」必要性がある。けど、実行しない。「受け止め方をかえればいい」と人に言っている人が、実際に「受け止め方をかえる」必要性があるときは、「受け止め方をかえずに」普通におこっている。
だから、「受け止め方をかえる」という方法は、本人によっても、普段は、実行されてないものだ。受け止め方の総体というのは、自我と深く結びついている。
あるいは、自我の基準そのものだ。これは、部分部分にきりきざめるものではないのである。かえるならかえるで、自我の基準をかえなければならないものなのである。
けど、そういうふうには考えないで、部分部分に切り離せるものだと考えて、そういうことを言うのである。もちろん、実際にそういうことが適応されている範囲というのは、非常に、狭い範囲だ。狭い範囲の出来事にしか、意識的にそういうことがで適応されない。
自分はすべてにそういうことを適応していると思っているのは、その人が『うぬぼれ屋』だからだ。
もちろん、これは、きちがい兄貴やきちがい親父の構造とはちがう。昨日、ちょっと、似たような話をしたので、「おなじことを言っているのかな」と思う人がいるかもしれないけど、ちがうことを言っている。
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「そんなのは、受け止め方をかえればいい」というような言い方についてのべてきたわけだけど、いまの日本というのは、やられたほうが、ボコボコにされる状態が成り立っている。かならず、やられたほうが「わかっようなことを」言われることになる。やったほうが、言われるのではなくて、やられたほうが、言われる。説教をされる。やったほうの責任は、だれも問わない。やられたほうが、やられたということに関する責任は、めちゃくちゃに追及される。これが、日本だ。
生まれの格差「上の上の上」がまきちらしていることが、生まれの格差「下の下の下」まで浸透しているのである。
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もうひとつ、立場についてのべておきたい。「その人」という言い方だと、問題があるので、Aさんという言い方にする。Aさんは、成功した経営者で、自分が主催するセミナーで「受け止め方をかえればいい」ということを言っているとする。教師の言うことを聞かなかったAさんが、どうして、「受け止め方をかえればいい」ということを言えるかというと、自分が自分の会社で、てっぺんだからだ。Aさんに指図する人がいないのである。Aさんがほかの人に指図をするのである。Aさんに説教をする人がいないのである。Aさんがほかの人に説教をするのである。そして、セミナー会場には、Aさんの信者が集まるので、ここでも、Aさんにさからう人はいない。「受け止め方をかえればいい」と言っているけど、Aさんは、頑固なところがあり、実際の生活のなかで、受け止め方をかえることは、ほとんどない……などと指摘する人はいないのだ。立場……。立場……が「ものを言う」。立場がものを言う。Aさんが例として挙げたものは、どっちも、自分ひとりの話だ。道ですっころんだのは、自分。タンスにつま先をぶつけたのも自分。自分が勝手にへまをして、自分がいたいと思っただけだ。人が介在してない。「教師」が「指図」をした話ではない。その話のなかには、「教師」という他者が存在している。自分が指図をされない立場であり、自分が人に指図をする立場なのである。Aさんが経営する会社の会社員も、セミナーに集まっている人も、自分より「立場がした」。うえじゃない。そういうことが条件として成り立っている。ようするに、例として挙がっているものは、自分が失敗した話であり、自分一人で失敗したときの話だ。そういう条件が成り立っている。そして、自分が「指図」されたときに、指図に従いたくない気持ちになり、指図にしたがわないということにも、条件が成り立っている。しかし、「受け止め方をかえればいい」という言い方のなかには、条件が存在しない。あたかも、どんな条件でも「受け止め方をかえればいい」と言っているような状態になる。そして、このことこそ、ぼくが二項目文であつかってきたことなのだ。「受け止め方をかえればいい」というのは、二項目文ではない。しかし、「腹が立ってしかたがないときは、受け止め方をかえればいい」というような言い方にすると二項目文に近くなる。「Xのときは、Yをすればいい(問題が解決する)」という言い方に還元できるからだ。問題なのは、法則性なんてないのに、あたかも、法則性があるような話になっているというところだ。実生活のなかでは「受け止め方をかえればいい」とは言えない問題がある。「受け止め方をかえればいい」という考え方で解決できる問題と、「受け止め方をかえればいい」という考え方で解決できない問題があるのである。ようするに、解決できる問題の条件と、解決的ない問題の条件がちがう。ところが、「どんな条件」でも「受け止め方をかえればいい」のだという意味が成り立ってしまっている。「どんな条件」でもというとは、明記されていないのだけど、明記されないがゆえに、普遍性を帯びてしまうのである。ほんとうは、条件で、いろいろとちがう。