ほんとうに、きちがいヘビメタでこまったな。ほんとうに、きちがいヘビメタで、ほかの人から誤解されて、こまったなぁ。ほんとうに、ちがうのに……。ちがうのに、ほかの人はぜんぜんわからない。勝手に誤解して、誤解をもとに自分の意見を言う。その意見は、基本的にまちがっている。どうしてかというと、誤解がベースにあるからだ。まちがった認識をして、そのうえで、自分の意見を言っているだけなので、意味がない。まちがっている。そして、そういう、まちがった意見を言う人が、「人の意見なんて気にする必要がない」「人がどう思っているかなんて気にする必要がない」と言う。ヘビメタ騒音のことを誤解して、好き勝手なことを言っているのに、よく言うよ。きちがい兄貴のことを誤解して、好きな勝手なことを言っているのに、よく言うよ。あれだけ、きちがいヘビメタにさらされたら……自分がこの世で一番きらいな音に毎日毎日、何時間も何時間も、さらされたら、どうしたって、常識的にはできることができなる。このできなくなるというのが、実際にそういう毎日を経験した人じゃないとわからない。実際にそういう毎日を経験してない人は……普通の他人は……そういう騒音が鳴っていたって……そういう毎日であったとしても、……常識的できることは、できるにちがいがないと思っている。これが、まちがいなのだけど、まちがいだとは思わないだろう。俺がどれだけ、それは、こういう点でちがうということを指摘しても、その人はその人で、自分の意見をかえない。ようするに、「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、常識的できることは、できるちがいがない」と思ったままだ。そういう前提でものを言ってくる。
たとえば……そういう現実が、ぼくにとってどういう現実か? いやな現実に決まっているだろ。ところが、これまた、そういう現実をつくっている一方の主人公が、「現実逃避は遺憾」というきれいごとを言うのだ。どこまでバカなんだよ。どこまで、いやなやつなんだよ。どこまで、人をなめているんだよ。
自分が正しいと思っている。自分がかっこういいこと、言ったと思っている。自分がきれいごとだけど、正しいことを言ったと思っている。あほらしくて、つきあってられないよ。佐藤(仮名)のような、哲学に興味がある人だって、そういうレベルのだ。哲学に興味がないやつなんてもっとひどい。
哲学的な問題に興味がある人でも、ぼくがここに書いたことがわからない人は、哲学的な才能がないと言っていい。教育学的な問題に興味がある人でも、ぼくがここに書いたことがわからない人は、教育学的な才能がないと言っていい。「哲学だ!」「教育だ!」と言っても、まったくなにもわかってないやつらばかりだ。