ぶんなぐられれば、ぶんなぐられたのだから、影響をうける。さらに、ぶんなぐったのに、ぶんなぐったということを、認めないということになると、ぶんなぐったにもかかわらずぶんなぐったということを認めないということにか相手が忘れて「ぶんなぐってない」と本気で言うのであれば、(やられたほうは)相手が「ぶんなぐってない」と思っているということを認識して、もっと腹がたつ。
きちがい的な家族と一緒に住んでいても『影響をうけないことは可能だ』と言う考え方がまちがっているのである。
「ひとごとだと思って、あたかも、影響をうけないことが可能だというような「いいかた」がはやっているけど、それは、きちがい家族と一緒にすんだことがない人が言っている、理想論だ。現実的ではない、きれいごとだ。きれいごとで、一括して語ると……たとえば、二項目文のようなものをつくると……現実一部が、とりのこされてしまうのである。その現実はきれいごとを言っているほうの現実ではないのであるっ。きれいごとを……いわば……言われているほうの現実だ。きれいごとを言われているほうは、じつは、きちがい家族……ほかの人が理解できないきちがい家族にたたられた……ということで、ハンディが生じているけど、無理解な人たちによって、もっと傷つけられる。無理解ぶりを発揮した言葉を投げかけられて、バカにされる。いま、「傷つけられる」という言葉を使ったときに、「傷つけられる」という言葉はさけるべきかなと思った。どうしてかというと、彼らは「そんなのは被害妄想だ」「悲劇のヒロインになっているだけだ」というような便利な言葉をもっているからである。しかし、無理解ぶりを発揮した言葉を投げかけられて、バカにされることは、事実だ。それで、傷つくかどうかは、別の問題ということにしておこう。