自分が経験したこととはべつに、「こころ」があるわけではないのだ。
経験していたとき「自分のこころ」が自分のなかにあった。自分の経験を無視して「楽しい」と言えば楽しくなる、なんてことはない。
楽しいとか楽しくないというのは、案外、「意識的な脳みそ」が支配できないことなのである。
それを、あたかも、支配できるように言ってしまう人たちがいる。その人たちは、あんぽんたんで幼稚だ。人生経験がとぼしいのである。
あるいは、めぐまれた環境で、めぐまれたことしか経験してない。まあ、本人の主観としては、「つらいこと」「かなしいこと」も経験したということになると思うけど、それは、「軽めのつらいこと」「軽めのかなしいこと」だ。
なんでも、軽めなのである。
一時的なものなのである。
めぐまれた人とめぐまれない人は、ぜんぜんちがう環境で、ぜんぜんちがうことを、経験している。環境に恵まれた人に、きちがい親父の話をしてもわからない。その人たちの理解は、うすい。その人たちの理解は、ほんとうの理解じゃない。ぜんぜんわかってない。
ぜんぜんわかってないけど、言語として、話として理解したということになる。
そりゃ、言葉の意味はわかるのだから、そういうレベルの理解はある。
けど、これがぜんぜんちがうのだ。
まあ、ちがうということ自体がわからないと思うけど。