2023年3月8日水曜日

「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。どんなミスでもゆるしましょう?

 引用開始+++
もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了+++

「ミスだっておたがいさま。だれだってミスをします。あなたもミスをするし、相手だってミスをする。自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」


こういう言葉というのは、基本的には、いろいろな見えない前提がある言葉なんだよ。手短に言うと、いろいろな決めつけがある。

その決めつけは、基本的には、書かれてないことが多い。

書かれてないのだから、書いたことじゃなということが言えるのだけど、「どんなことだって」というような言葉は書いてあるので、その見えない前提が、すけて見えることがあるのである。なので、この言葉の作者は、まるで気にしてないのだけど、「いらっ」とくる人がでてくるのである。

「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。小さなミスも、大きなミスも、ミスと言ったら、ミスなんだよ。ミスというのは、非常に抽象度が高い言葉なんだよ。どんなミスも、「ミス」という言葉に含まれてしまうんだよ。だから、ただ単に「ミス」と言った場合には、どんなミスも「ミス」という言葉に含まれてしまうということを、気にして発言するべきなんだよ。

簡単に言ってしまえば、釣銭をまちがったというようなミスも、人が死んでしまうようなミスも、どっちもミスなんだよ。漢字変換をしまちがったというミスも、全身不随になるようなミスも、どっちもミスなんだよ。

もし、だれかのミスで、自分が、そのあとずっと、動けないからだになってしまったとしよう。

そして、病院のベットで寝ているとしよう。そのとき、公平さを装う第三者があらわれて、「だれだってミスをします」「あなたもミスをするし、相手だってミスをする」「あなただって、漢字変換ミスというミスをしたでしょ」「それとおなじですよ」「相手だって、自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」と言ったら、どういう気持になるか?

俺だったら、「ミスのでかさがちがうだろ」「ミスの意味合いがちがうだろ」「どうして、(たとえば自分のブログにのせる文章の漢字変換ミスと、その後の人生がなくなるようなミスをいっしょにするんだ」と言いたくなる。

「ミス」というおなじ言葉として、表現されることであっても、現実世界ではまったくちがった、意味内容をもつことがあるのである。

この公平さを装う第三者というのは、漢字まちがいというミスも、全身不随になって動けなくなってしまったということをもたらしたミスも、同じレベルのミスだと思っているのである。どんなミスも、ミスはミスだから。そして、だれだってミスをするのだから、ミスはおたがいさまだというとになる。ミスがおたがいさまなら、どんなミスも許すべきなのである。

公平さを装う第三者が、そういうふうに思っているということが、ベッドに横たわっている人にわかった場合、ベッドに横たわっている人は、おこるのである。このいかりは、正常ないかりだ。わかってないのは、公平さを装う精神世界の人だ。

こういう精神世界の人は、自分のぶんだけ「他人」のミスをゆるせばいいわけ。他人に対して、別の他人のミスをゆるすべきだというようなことを言うべきではない。どうしてかというと、いままで説明してきたように、ひとくちに「ミス」と言っても、現実世界では「ミス」の内容が、大きくことなるからだ。

こういう精神世界の人は、「ミスはミスで、どんなミスもおなじ」「みんな、ミスをするのだから、他人のミスはゆるすべきだ」というようなことを言っているのだけど、話は、わりと複雑なのだ。他人が他人に迷惑をかけた場合を考えると、想定される人物が三人必要なのだ。

たとえば、精神世界の人をAさんだとすると、Bさんと、Cさんが必要になる。Bさんは、すでに、Cさんに迷惑をかけた人なのだ。逆に、CさんがすでにBさんに迷惑をかけた人である場合もある。

ようするに、話者(自分・精神世界の人)と、(他人1)(他人2)が必要なのだ。話者は、他人1が他人2にどのような迷惑をかけたとしても、他人2は他人1をゆるすべだということを言っているのである。

これが、ゆるしのすすめだ。

しかし、話者は、他人1と他人2のあいだに、どのようなことがあったのかということに関しては、まったく感知してないのである。「ミス」という言葉をつかっているけど、そのミスは、他人に迷惑をかけるタイプのミスなのである。

そして、ミスの大きさは、捨象されているのである。抽象的な世界の「ミス」について語っているわけで、現実世界の「ミス」について語っているわけではない。抽象世界の「ミス」は、なにか「ミス」と呼べるものといった、具体的な姿がない「ミス」なのだ。

しかし、現実世界の「ミス」というのは、すべてが、個別具体的なミスだ。この個別具体的なミスは、現実の文脈の中で、大きなミスであったり、小さなミスであったりする。やられたほうがこうむった被害のでかさについては、まったく語られていないのだ。

なので、現実世界において、他人がしでかしたことによって、たいへんな被害が生じている場合を無視しているのだ……この話者は、他人1か他人2にしょうじた被害について無視をしている。けど、「どれだけ被害がでかくても、人間は、人間(他人)をゆるすべきだ」という意味のことを言っているのだ。

他人1がどういうミスをしたのかということはまったく問題にならない。他人1のミスによって、他人2がどのような被害を被ったのかということは、まったく問題にならない。そういうことを言っているのである。

他人1と他人2をいれかえることもできる。けど、いちおう、他人1が他人2に迷惑をかけたというケースについて語っている。何度も言うけど、逆の場合もある。他人2が他人1に迷惑をかけた場合もある。

さらに、話者が「自分」という言葉を使うと、その自分という言葉は、話者自体のことをさしているのか、読者自体のことを指しているのかわからなくなる。これは、けっこう重要なことだ。

こういうことを、全部吹っ飛ばせるのは、「ミス」という抽象的な言葉を使い、「自分」という抽象的な言葉を使い、「他人」という抽象的な言葉を使うからだ。

あるいは、「他人」のかわりに、相手という言葉を使う場合もあるのだけど「相手」という言葉も、かなりめんどうな問題を引き起こす。抽象的な「ミス」という単語をつかっているのにもかからず、自分!の人生において発生した「ミス・ストーリー」が頭のなかにいくつかあるからだ。完全に抽象的な「ミス」全体について語っているようでいて、思い浮かべて語っているのは、この人の人生において発生した、具体的なミスなのである。そのミスは、その人の人生において発生した具体的なミスなのであるから、どれも、他人の人生において発生した具体的なミスとはちがうのである。話者が、具体的な話者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべて、話をするのだけど……抽象的な話をするのだけど、読者は読者で、読者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的」(話者にとっての相手)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべてしまうのである。


 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。