引用開始
相手だって「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから、自分への対応が雑になっても、肩の力を抜いてゆるしてやればいいでしょ。「自分への対応が雑だ」なんてことにはこだわらないで、もっと相手にやさくしくしてやってもいいんじゃないの。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心を満たしておけば、自分への対応が雑になっても、ゆるせるんじゃないの?
「カチンときてもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「ミスがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、「雑な対応」はおたがいさまだ。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておきたいのだから、みたせばいいでしょ。どんなことでも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておけば、「雑な対応をされても」ゆるせるのでは? ぜんぜん、寛容な気持で心をみたしてないじゃん。寛容な気持で心をみたしてないから、(相手との)縁を切りたくなって、縁を切るんでしょ。いちいち「対応が雑だ」とカチンときてるんじゃないの?
「雑な対応だ」と思ったとき、ゆるしてやれば、何回、(相手が)雑な対応をしてきても、そのつど「人間はおたがいさま」と思って、ゆるしてあげればいいんじゃないの?
「雑な対応」ぐらいで、腹をたてているのに「なにがあってもおたがいさま」なんて、よく言えたものだな。「なにがあっても」と言っているんだよ。これじゃ、実際に子供を誘拐されて、殺されたら「なにがあってもたがいさま」だから、ゆるしましょうなんてことはならないよな。だったら、人に「なにがあってもおたがいさま」なんて言うべきじゃない。
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「なにがあってもおたがいさま」というのは、「どんな出来事が発生しても、おたがいさま」ということなんだよ。どうして、その出来事のなかに「雑な対応をされるという出来事」は、ふくまれていないんだよ? 「なにがあっても」と言っているでしょ……。「雑な対応されるのだけは別だ」言いたいのか? ほかの人は「雑な対応」レベルのことではないことで、悩んでいるんだよ。そういうことがあるのぉ。もちろん、雑な対応でも、頭にくる。けど、そういうレベルのことではないことで、くるしんでいるんだよ。「なにがあってもおたがいさま」「もっと肩の力をぬいてゆるしましょう」なんてことを、「雑な対応レベルのこと」でおこっているやつが、言うべきではない。
「なにがあってもおたがいさま」だから「寛容なこころ」で、相手をゆるして、つきあうか? あるいは、「なにがあってもおたがいさま」なんてことはないから、自分に対して雑な対応をするやつのことは、さっさときるのか? どっちかにしろ。ささっと(縁を切る)という対応をするなら「なにがあってもおたがいさま」とか「寛容な気持でこころをみたしておきたい(寛容な気持でこころをみたしておけば、肩の力をぬいて、ほかの人をゆるせる)」というようなことを言うな。「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。
「(こっちが雑な対応をしてないのに)相手が雑な対応をしてきたら、おたがいさまではない」と思うなら「なにがあってもおたがいさまだ」とは思ってないということだ。
「雑な対応」をされるとカチンときて、縁を切るというのであれば、「(相手を)ゆるしてない」ということだ。「おたがいさまだからゆるす」なんことは、実行してない。「寛容な気持でこころをみたして、相手をゆるす」ということは、実行してない。そもそも自分が実行してないことを、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか? 自分が実行してないことを、さも実行しているようなふりをして、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか?
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雑な対応をされたら「おたがいさまじゃない」と思うやつが、「なにがあってもおたがいさま」なんて言うな!!
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