ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい。
ヘビメタ騒音がなかった場合の人生を歩みたい。ぜんぜんちがうと思う。ぜーーんぜん、ちがうと思う。ぜんぜんちがう人生だと思う。きちがいヘビメタ騒音がなかったら、わかったようなことを言われなくてもすんだ。
きちがい親父のもとに生まれたとしても、せめて、ヘビメタ騒音が発生しなかったら……。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかったら……。全部、仮定の話だ。架空の話だ。
普通の人は、そんなことを考えなくてもいい。普通の親のもとに生まれたからだ。
きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、ものすごくでかい音で騒音を鳴らすということがなかったからだ。騒音を鳴らしたにしても、最長で六か月ぐらいでやめてくれるようなちょっと頑固な人だったらなぁ六か月で、終わればどうにかなったと思う。
けど、六か月間でも、通の人が想像する六か月のヘビメタ騒音と、実際に鳴っていたヘビメタ騒音はちがうと思う。六か月間一倍速で経験するということがなかった人が考えるヘビメタ騒音と、六か月間、一倍速で経験した人が考えるヘビメタ騒音はちがうと思う。
実際に、やられた人と、「話で聞いた人」はぜんぜんちがう。実際にやられなければ、どれだけ想像しても、わからないことが、いっぱいある。
どれだけ説明を聞いても、わからないことが、いっぱいある。
ほんとう、ちがうんだよな。
どれだけ、広範な範囲にわたって、影響をうけるか、一倍速で、実際に経験しないとわからない。わからないと、「エイリさんは働けるのに、働かない」という前提でものを言ってくるようになる。前提を実際に、言葉にして言うやつは、まだましだ。
言葉にして言わないやつだって、前提として、それがあると、いろいろとゆがんだ判断をすることになる。それ、ゆがんでいるから……。
まあ、ゆがんでいると言われてもわからないだろうな。「どこがゆがんでいるんだ? 言ってみろ」と怒って言うかもしれない。「見えない前提」にこちらから言及するというのは、けっこうやっかいなことだ。
けど、ゆがんでいる。まちがっている。どれだけいろいろなところで影響をうけるか?
どれだけいろいろなところでばかにされるか?
どれだけ、見当はずれなことを言われるか?
見当はずれなことを言われるようになるか?
これ、立場なんだよ。誤解をうけやすい立場というのがある。
たとえば、無職とか、引きこもりとか……。どんだけ……。みんな、おなじぶんだけやられれば、睡眠障害や生活体力障害で、働けなくなるのに……。そして、睡眠障害や生活体力障害で、むかしからの人間関係が切れると、まあ、引きこもりの定義にあてはまる状態になってしまうのに……。
「からだをならせばいい」と言ったって、それは、七年間、ヘビメタ騒音生活をしなかった人間の話だ。言っていることだ。
ほんとうに、ぜんぜんちがう。
思っているのと、経験するのではぜんぜんちがう。
七年間、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている状態で、学校に通ったから、だめになっているんだぞ。がんばったから、だめになっている。これが、まったくわからないのである。どれだけ、ぎりぎりの生活を、やってきたか、まるでわかってない。こういうことを……。ヘビメタ騒音を鳴らしていたときの、きちがい兄貴のすがたがうかぶ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っても、きちがい的な形相で鳴らしていたきちがい兄貴の、すがたがうかぶ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っていたのは、俺な。こういうのも、書かないと、わからない人がいるんだよな。いちゃもんをつけてくる。
きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、相手がどれだけこまっているか、わからないのだ。これは、脳みその機能障害だ。頭がおかしいから、わからない。普通の人が、絶対にわかることがわからない。普通の人ばあい、わからないふりをするけど、わかっている。
きちがい兄貴ときちがい親父の場合は、わからないふりをしているわけではなくて、ほんとうにわからない。何千回、何万回言ったってわからないよ。何千回、何万回、ぶつかったって、わからないよ。わからないまんま、ほんにんはまったく「つもりがないまま」やり続ける。
こういう、ギャグみたいな話。
こういうきちがい空間。きちがい空間では、すへでのきれいごとが成り立ちませーーん。なので、きれいごとが成り立っていると思って、そういう基準で、ガタガタ言うのをやめてくれないかなぁ。はっきり言って、腹がたつ。
で、これまた、そういうきれいごとを言う人たちに、どれだけ、こっちの状態をはなしても、わからないままなんだよな。まあ、その人たちがわからないのは、経験がないからで、きちがい兄貴やきちがい親父がわからないのとは、ぜんぜんちがう。ちがうんだけど、誤解をしている。前提がちがう話をしているんだよ。
宗教の人「人間はだれだっておたがいさま」
俺「おたがいさまじゃないときだってあるよ。二者関係について語るときは、抽象的な人間という概念を出さないほうがいい。具体的なある人と、具体的なある人の関係だ。いれかえが可能なわけではない。けど、「人間」と言ってしまうと、あたかも、いれかえが可能な関係であるような印象をあたえるのである。AさんがBさんにやったことは、ほかの人が、べつのだれかにやったことではないんだよ。おたがいさまじゃないことがあるんだよ。おたがいさまじゃないことをすることがあるんだよ。個別具体的な人間が、個別具体的な人間に対してやることがある。じゃあ、それは、人間が人間にやることなのだから、人間が人間にやることだと抽象化していいのか? よくない。よくないよ。よくない」