くるしいだけの一生だったなぁ。ほんとうにつかれた。誤解されっぱなしだ。そこでの努力……というのは、実をむすばない。実をむすばないというか、それ自体が、マイナスなのである。
ヘビメタ騒音のなかでの努力……大きなマイナス。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとの努力……大きなマイナス。普通の体力がある人……ヘビメタ騒音によって体力をけずられていない人が考える努力とは、ぜんぜんちがう努力なのである。
けど、ヘビメタ騒音がなかった人には、それがわからない。
ちがいがわからない。
からだで感じたちがいがわからない。
だから、ちがいがわかってないまま、きれいごとを言ったりする。けど、そのきれいごとが、成り立たないのだ。
だいたい、そういうきれいごとが成り立っているのであれば、きちがい兄貴はきちがい兄貴ではなく、きちがい兄貴よる、きちがいヘビメタ騒音は鳴ってない。これが重要ことなんだよな。
けど、ヘビメタ騒音がない人には、わからない。ちがいはわかるわけがない。両方体験して、それで、ちがいがわかるという状態になるからだ。
きちがい家族がいて、そのきちがい家族がへんなことにこだわってこだわってこだわって、絶対、ゆずらないで、きちがい行為をするということの意味がわかってない。毎日毎日やられたら、影響をうけるんだよ。ところが、『影響をうけないことは可能だ』という前提でものを言う。
やられてないから、そういう前提でものを言う。
けど、そもそも、やられてないのだから、「やられてないから、そういうことを言える」というような意識は、当然、発達しない。かたいっぽうしか経験してないのだから、その経験にもとづいたことを言うようになる。
わからずに言っているということになるけど、わからずに言っているわけではないということになってしまう……本人の意識のなかではそうだ。
所与の条件として、きちがい兄貴がいないのだから、きちがい兄貴がもたらすことなんて、わかるわけがない。わからないで言っている。
けど、わかったつもりになっている。「ちがい」を理解したうえで言っているという気持になっている。