うんと手短に言うと、「引きこもっている人をなんとかしよう」「引きこもっている人を、なんとか社会に参加させよう」と思っている人がやるような行為は、すべてまちがっている。すべて、まちがっている。「引きこもっている」というのは、状態だ。
理由はいくらだってある。
しかし、たいていの場合は引きこもりの問題というのは、むしろ、社会によって引き起こされているのである。ようするに、たいていの場合「性格の問題」「資質の問題」と考えるのはまちがっている。個人の性格がわるいからそうなる……個人の資質がわるいからそうなると考えるのは……たいていの場合……まちがいだ。
「の」の重複を避けるために「個人の性格の問題」「個人の資質の問題」という言い方をさけたのだけど、簡単に言うと、たいていの場合……「個人の性格の問題」でもないし「個人の資質の問題」でもない。「引きこもり」と言う言葉にまつわるものすごく悪いイメージには問題がある。
そして、この悪いイメージが、画一的なのだ。一般人側の「引きこもりの人」に対する悪いイメージは相当に、まちがっているものだ。
個人の条件を無視するべきではない。けど、個人の条件を無視して、「引きこもりならこうだ」という悪いイメージをつくりだし、個人に当てはめて、引きこもり当事者に対面するのだ。
これじゃあ、なにも解決しないよね。ひどくなるだけだ。そういう他者は、引きこもり当事者にとって不愉快な他者なのである。
しかも、条件を無視しているということに気がつかない「うぬぼれのつよいやつ」なのだ。こんなのは、有害な他者でしかない。ようするに、引きこもり当事者にとって、ほんとうの敵は、引きこもりに対して悪いイメージをもっている「うぬぼれのつよい」他者だ。
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はっきり言ってしまうと、引きこもりが問題だというなら、引きこもりの問題は、ぎすぎすした社会との関係で考えるべきだ。人生をかけた椅子とりゲームであつくなっているから、引きこもりの問題がしょうじる。
社会の圧力が高いから、引きこもりの問題がしょうじる。
「個人」における性格の問題ではなくて、「圧力容器」の「圧力が高すぎるから」問題がしょうじる。「社会の圧力」のほうをどうにかするべきだ。
何度も言うけど「社会の圧力」が高すぎるから、引きこもりの問題がしょうじる。
ところが、アドラー主義者、認知療法家、行動主義心理学者、引き寄せ教徒、言霊教徒、思霊教徒が、「個人の性格」の問題だとしてしまうのである。
そして、さらに、個人に社会に参加するように働きかけ、社会の圧力をあげてしまう。こんなの、本末転倒。まるでわかってない。思いなおした「個人」が社会に適応して働くと、「圧力容器」の圧力が高くなってしまうのだ。
アホすぎる。
引きこもりの問題は、『個人の性格』の問題ではなくて、『社会の圧力』の問題だ。悪魔の容器だから、問題がしょうじる。自己責任論も、圧力を高くする。
さらに、たましいの自己責任論である「カルマ」という考え方も圧力を高くする。圧力を高くすると、ぎすぎすした人間関係になるのである。ぎすぎすした人間関係になると、椅子とりゲームの圧力がさらに高くなってしまうのである。
「もう、椅子とりゲームはごめんだ」と思った人から、社会から遠ざかっていくので、社会の圧力がそれだけ減る。「もう、椅子とりゲームはごめんだ」と思った人が引きこもるのである。これは、効果的な方法だ。
だから、これは問題がない行為というよりも、むしろ積極的に社会的な問題を解決するための行為なのだ。社会の圧力をさげる必要がある。引きこもりは、社会の圧力をさげるためのひとつの『解』だ。
引きこもってない人は、むしろ、引きこもっている人に感謝するべきなのである。
そう言えば……なんで「すべて感謝」「なんでも感謝」と言っている人たちが、引きこもりには感謝しないのだろう。なんで「すべて感謝」「なんでも感謝」と言っている人たちは、『他人が引きこもること』や『自分が引きこもること』に感謝しないのだろう。
なんでも感謝なのだから、感謝するべきだ。感謝教徒も、おたがいさま教徒も、社会の圧力をたかめている。「すべてに感謝しましょう」というのは、社会の圧力を高める方向に働く。「だれだっておたがいさま」「なんだっておたがいさま」というのは、社会の圧力を高める方向に働く。
実際には「すべてに感謝感謝」と言っている人たちは、引きこもり当事者や引きこもり行為そのものには感謝しない。 「すべてに感謝感謝」と言っている人たちは、社会の圧力を高める行為にだけ、感謝している。なら、「すべてに感謝感謝」と言うべきではない。すべてではないのだから。
引きこもりに対するイメージの悪さは、実体を離れている。ほんとうは、そんなに悪くないものを、相当に悪く思っている。そして、そういうイメージをもっている人たちが、引きこもりをつくる圧力をたかめている。社会の圧力が減れば、引きこもりも減る。逆なのである。引きこもっているものを、社会にもどそうとする行為……これは、肯定されているけど、よくない行為だ。そうではなくて、社会のほうの圧力をまず減らすようにしなければならないのである。
ずっと前から言っているけど、圧力がたかすぎて、いびつになっている。その組織が、社会のなかでどの辺に位置するかというピラミッド内部内の上下関係と組織の内部での上下関係が、実際には、引きこもりをつくりだしている。引きこまらなければならない人たちを量産している。そして、社会の圧力が高くなればなるほど、底辺側の人が無理をしいられるということになってしまうのである。
そして、思想が、これを後押しする。ぼくが批判している思想と言うのは、圧力容器の圧力をたかめる思想だ。この思想が、圧力をたかくしているのである。下の人にかかる圧力が高くなって、上の人の圧力が減るのである。
上の人は、もっともっと、下の人に圧力をかけることができるようになる。収入しても、下の人がくるしめばくるしむほど、上の人の収入がたかくなる。上の人というのは、ピラミッドの上層部における、上層部の話だ。「社会ピラミッド・上」の組織のなかで、「上」の人のことだ。もともと、不均衡なのだけど、もっと不均衡になる圧力がたかくなってしまうのである。
引きこもりがふえるというのは、「自然な社会」のほうの作用だ。圧力が人工的に高くなることに対する、社会側の反応だ。この社会の反応は、自然な反応なのである。だから、ほんとうは、ぼくが「きれいごと」だと言っている思想が、弱くならなければならないのである。
ずっと、言ってるでしょ。
引きこもりが増えることは社会にとっていいことなのである。だから、それを努力論や自己責任論で封じ込めてはいけないのである。さらに言ってまえば、「すべてに感謝感謝」とか「すべてはおたがいさま」と言って、がまんし続けるから、圧力容器の圧力がたかくなってしまうのである。
そして、その不満のはけ口が、底辺に対する攻撃になる。上下関係で言えば、「下」に対する攻撃になる。
だから、どれだけ、きれいごとを言っても、けっきょくは、うさばらしに、「下」のやつをいじめるとか、ののしるということになってまうのである。この意識と行動の格差が、これまた、問題なのである。きれいごとの意識と、実際の行動の格差が問題なのである。
実際の行為をしているとき、それが悪いことだと認識できるかどうかという問題がある。実際の行為をしているときは、別に圧力をうみだす行為だとは思ってない場合のほうが多いのではないかと思う。ごく自然に、圧力をかけるわけだから……。そして、圧力をかけてもいいと思っているわけだから……。