++++++++昨日の続き
本人が、「気にするべきことか、気にしなくてもいいことか」決めるわけだから、どれだけひどいことをしても、気にしないやつがでてくる。そして、気にしないやつこそ、生きやすいということになってしまうのである。それは、やはり、社会の圧力をあげる。
別に「人を引きずりおろそう」としていなくても、人を引きずりおろそうとしているやつがいると、そいつが不愉快なことをしてくるわけだから、人間関係上のストレスがあがる。
そして、このストレスは、はけ口を求めている。発生したストレスを発散するとなると、そこでまた、人間関係上のトラブルがしょうじる。そうなると、ストレスのはけ口になったやつにも、ストレスがしょうじるので、また、ストレスのはけ口を求めて、どこかのだれかにに発散することになる。
そういうふうに、連鎖的に、ストレス発散攻撃が発生する。
たてまえは、ともかく、人間が人間に対してオオカミ?になった状態が発生する。
これを、たてまえで、抑え込むのは、かなりむずかしいことだ。
だから、なにかしら、どこかしらかで、たてまえを無視して、(誰かに)ストレス発散攻撃をしているということになる。たてまえを重視して、攻撃せずにため込むと、うつ病になってしまう。
「社会の圧力」があがると、個人が、別の個人に、ストレスを発散したい気持ちになるのだ。
そして、この社会の圧力をあげるしくみが「努力をすれば成功する」といった「きれいごと」なのだ。
「感謝感謝」も「おたがいさま」も「受け止め方の問題だという言い方も」「言霊」も「思霊」も「引き寄せ」も、すべて、社会の圧力をあげるように作用する。
「言霊」も「思霊」も「引き寄せ」は、願望充足系で、けっきょく、自分の思い、自分の願いがかなえばいいということがベースになっている。これは、「努力」で成功を「引き寄せる」というようなこととおなじだ。「成功」というのが「自分の願い」なのだから、努力系は願望充足系の一部だ。
方法が、「努力」なのか「引き寄せ」なのかのちがいだ。
どっちも、個人的な願望を、この圧力社会のなかで、充足しようとしている。引き寄せだって、引き寄せられなかったら、もっと、がんばって引きせるようにする」というような考えがめばえてしまう。がんばって、引き寄せ行為をする……これは、「努力」にほかならない。
「おたがいさま」も「受け止め方の問題だという言い方」も、「感じないよう」にして「こえらればいい」という態度をつくりだす。これは、攻撃されたって、攻撃されたと思わなければいいという言い方とおなじだ。これもこれで、社会の圧力をあげる。
「感謝感謝」は「親切」「あいさつ」とひとつのグループにすることができると思う。このグループは、じつは、「過剰」にそうすることだから「自然さ」が失われる。
しかし、自然さが失われても、社会的な立場が「上」ならば問題がおこらない。階層が低い人……社会的な立場が「下」である人が、それをやると問題が発生する。
あっ、「ほめる」というのもそうだ。こういうのは、意図的に、過剰にやるべきことではないのだ。ところが、そういうふうにすると、そういうふうにした本人の意図とはちがう、感情を、やられたほうに引き起こすことになる。
たとえば、過剰にほめられると、「バカにされているような感じがする」と思うのとおなじだ。過剰さが、不自然さをうみだす。それは、意図して、別の目的でそうしているのだから、そうなる。ほんとうにほめるときは、そういうこと……ほんとうに感心することを相手がして、それについて、自分が本心を述べているときに限られる。
ところが、「ほめると人間関係がよくなる」と思って、過剰に(相手)をほめるときは、「人間関係をよくしよう」という意図があるので、相手のなんらかの行為に「関心をした」「すごいと思っている」という意味合いが減ってしまうのである。
その意味合いが減っているにもかかわらず、(相手は)ほめられるので、「なにかいやな感じ」がするのである。
自分をほめていたとしても、ほめる目的が別にあるということを感じ取ってしまうのだ。なので、「ほめればいい」ということを主張する人が言うほどは、いいことにならない。むしろ、トラブルをうむ可能性がある。