「たいして、でかい音で鳴らしてない」と思ってしまっていて、その思い込みが、強すぎるのである。こんなの、精神障害者の妄想にひとしい。どれだけ言っても、わからない。どれだけ言っても、まったくつたわらない。
信念のように、「たいして、でかい音で鳴らしてない」と思っている。けど、きちがい兄貴の音は、きちがい兄貴ですら、うち以外のところでは、鳴らせないほどでかい音だ。実際、きちがい兄貴が、いま住んでいるマンションでは、鳴らしてない。
鳴らせないのだ。
「マンションで鳴らすには、でかすぎる」ということを知っているからだ。けど、『きちがい親父がつくった家』なら鳴らしていいのである。『きちがい親父が自分にしたことを考えるなら、鳴らしていいのである』。きちがい親父が当たり前にやってきたこと……それは、きちがい兄貴が、『うちでなら』やってもいいと思うことだ。
そして、これが、無意識的な信念になっている。基本きちがい兄貴は、きちがい親父と頭の構造が同じなので……こういうことに関係する頭の構造が同じなので、そういう考えがなくても、そうする。自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる。
この「自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる」ということも、きちがい親父がずっとずっと毎日毎日、毎時間、毎分毎秒、やってきたことなのである。どうしてかというと、そういう脳みそ以外の脳みそがないからだ。そういう頭を搭載して、生きている。
だから、呼吸をするように、そうするし、そうすることにかんして、まったく、問題だと思わない。「自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる」し、「そうしてもまったく問題がない」と思っている。
そういう状態で、暮らしている。生きている。
生きていないときがないから、生きているあいだはそうする。
けど、「よそ」でそれをやると、反発をくらって、自分が窮地に陥るのである。それがわかっているからやらない。けど、「うち」でなら、押し切っても、自分が窮地に陥ることがないので、やるのである。そういう、気持ちがある。根底にある。無意識的にある。問題なのは、そういうふうに意識しているわけではないということだ。
「よそ」でやると、問題になるからできないけど「うち」でやるなら、問題はない……とはっきり意識してそうしているわけではないのだ。問題なのは、まったく意識してないということだ。まったく意識してないけど、本人はその通りに動ている。
そして、その通りに動いしているということについて、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、まったく自覚がいない。認識がない。主体? ここでは、親父と兄貴だね。主語? ここでは、親父と兄貴だね。
親父も兄貴も、おなじような? 頭をもっていて、おなじような無意識的な信念にしたがって、そうするのである。そして、「自分がそうしている」ということは、認めないのである。頑固に無視している。「やったってやってないこと」のうちのひとつだ。これは、認めないということを認めないということだ。やっていることを認めないということではない。
けど、「認めないということを認めない」ということと「やったってやってない」という認知が、同時に成り立っているのだ。これは、別の層の話だ。層は、ちがう。けど、同時に成り立っている。
で、ともかく、別の回路になってしまうのである。「よそ」ではやってはいけないということが、ごく自然にわかることでも、「うち」でなら、やっていいということになってしまうし、「うち」でなら、やっていいということになっているということが、どこまでもどこまでも、疎外されているのである。本人にとって疎外されているのである。
ようするに、自分のことであっても、自分のことではないのである。
そういうことが、ごくごく、自然に成り立って、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らして、わけのわからない? 構造によって……そのことを……ごくごく自然に無視してしまう。
これは、本人にとってだけ、都合がいいことなのである。
問題行為を、絶対にやりたい……問題行為をやろう……問題行為をやっているさいちゅうに、だれがなにを言っても、きかないでやり続けよう……けど、そうしていることは、意識にのぼらせないようにしよう……。
こういう状態で、頑固に頑固にやり続けるのである。
こんなの、「うち」でやっているかぎり、殺されないとやめることができないということになる。相手がどれだけ「やめてくれ」と言ってきても、やめてやる必要性がないのだからそうなる。「やったっていいことをやっている」という感覚で、やりきるけど、本人のなかでは、同時に「やってない」ということになっているのだから、まったく反省ができないのである。
だれかが……「うち」のだれかが……やめてくれと言ったって、そんなのは、きかなくていいのである。きくかどうかは、自分で判断していいことになっているのである。これも、ちょっと、アドラーの「相手がどれだけがみがみ言ってきても気にしなくていい」「相手の言い分が正しいかどうか自分で判断できるし、判断はまちがってない」というのと似ているんだよね。
「相手の言い分が正しいかどうか自分で判断できるし、判断はまちがってない」という前提が、これまた、見えない前提として成り立っている。言語化されることもあるけど、つけたしで、言語化されるだけだ。「自分でよく考えればよい」のである。
「自分でよく考えても、問題行為だとは思わないやつが、問題行為をしている場合」は、事前に除外されているのである。この、アドラーというやつは、ほんとうに単純なやつだ。