たとえば、成功した人じゃないと、成功法則について語れないということがある。成功してない人が、成功法則について語ったとしても、耳を傾ける人は、あんまりいない。
やっぱり、成功した人が語る成功法則でないと、意味がない……と、普通の人は思っているところがある。おなじように「不幸な人が語る、しあわせになる方法」にも、耳を傾ける人はあんまりいない。
しあわせな人が語る、しあわせになる方法でなければならないわけだ。
もちろん、「なければならない」と言っても、ほんとうに「そうでなければならない」というわけでもない。不幸せな人だって、しあわせになる方法について語ることができる。書くこともできる。できるけど、それは、あんまり、信用されないと思う。
では、どうして、しあわせな人はしあわせなのかというと、めぐまれた家に生まれたから、しあわせなのだ。まず、これが土台として成り立ってないとだめなのだ。
けど、しあわせな人は、自分の努力でしあわせになったと勘違いしてしまう。これは、勘違いだ。
めぐまれた家に生まれた人にかぎって「生まれの格差なんて関係がない」「コツコツと努力すれば成功する」なんてことを言う。ほんとうは、「生まれの格差(親)上」で「生まれの格差(カネ)上」だから、しあわせな生活を送ることができているのだ。
もちろん、本人なりに努力したとは思うけど、「生まれの格差・上」の人は、それがあたりまえだと思ってしまうところがある。たとえば、親が人格者で、医者だったとする。本人が、医者になることを希望して、医学部に入って、医師免許をとったとする。して、病院を経営したとする。もちろん、本人も努力した。
けど、きちがい的な親にたたられていたわけでもないし、きちがい的な兄が、常に毎日、きちがい的な音を鳴らして、勉強を邪魔をしたわけでもない。自分の子供を医学部に入れることができる親というのは、悪いけど、普通の親じゃない。けど、まわりがみんな医者の子供であるような学校に通うと、それが普通だと思ってしまうのだ。まわりのみんながそうだから「みんなの親もそのくらいできるでしょ」と思っているのだ。そういう思い込みがある。
たいていの場合、医学部に進学するということは「生まれの格差(カネ)上」だからできることだ。「まわりの人間」も医学部に進学できるような「うち」に生まれた人だから、これがあたりまえだと思ってしまう。
こういう人は、いちおう、「リア充」の生活をしている。結婚して、子どもをつくったりしている。そういう経済基盤がある。自分がしあわせになれたのは、自分がほかの人に親切だからだ……と思っているのである。
けど、ほんとうは、その人がしあわせなのは「生まれの格差(親)上」で「生まれの格差(カネ)上」で、なおかつ、才能があり、本人が努力をしたからだ。なので、そういう部分をすべて無視して、「親切にするかどうか」に注目してしまうのは、どうかと思う。
人に親切にしない人は、ふしあわせだということになってしまうのである。ふしあわせな人は、人に親切にしない人だということになってしまうのである。
「人に親切にすれば、しあわせになれる」ということは「おまえがふしあわせなのは、人に親切にしてこなかったからなんだぞ」と言っているのとおなじだ。このふたつは、意味的に等価なのである。あるいは、「人に親切にすれば、しあわせになれる」ということは「不幸な人は、いままで人に親切にしたことがないから不幸なのだ」と言っているのとおなじだ。このふたつは、意味的に等価なのである。
けど、人に親切にしているにもかかわらず、不幸な人はたくさんいる。
「人に親切にすれば、しあわせな生活ができる」というのは、まちがった考え方なのである。当然、法則性もない。一時的に「しあわせな感じがする」ということと、継続的に「しあわせな生活をする」ということは、ちがうことだ。混同してはいけない。
むしろ、ぼくの感覚で言うと、多くの、親切な人は、くるしんでいると思う。親切な人、全員ではないけど、多くの、親切な人は、くるしんでいるような感じがする。生まれの格差(親)下で、生まれの格差(カネ)下の人が、もともと、親切なこころをもっていると、くるしんでしまう傾向が強いと思う。
こういう人は、悪魔が支配するこの世で、もっと傷つきやすい人だと思う。ぼろ雑巾のように、使われて、へとへとになっているよ。ボロボロになってふしあわせな生活をしているよ……。もちろん、全員とは言わない。そういう傾向があると思う。