ヘビメタ騒音にやられた俺に対する、世間一般の人の対応というのは、ひどかったよ。普通の人には、きちがい家族による、きちがいヘビメタのすごさがわからない。経験してないから、わからない。どの時間もめちゃくちゃになる。鳴っている時間だけ、だめになるわけじゃないのである。影響が残る。毎日続けば、前の日の影響がとれないまま(消化されないまま)次の日の騒音がつみかさなるということになる。ほんとうに、過酷な状態なのである。その過酷な状態のなかで、きれいごとを信じて、努力すると、自分のからだがおかしくなるのである。意識的な意志では制御できない脳がおかしくなる。それでも、がんがん鳴っている。どれだけ「やめてくれ」と叫んでも……兄貴の前で叫んでも、ずっとやっている。きちがいだから、自分の気持ちしかないんだよ。そのときの自分の気持ちしかない。自分の気持ちとしては、自分が満足できる音で鳴らしたいのである。だから、自分が満足できる音で鳴らす。自分が満足できない音で鳴らすという選択肢はない。たとえ、一分間だろうが、自分が満足できない音で鳴らすということは、できない。そんなのは、最初から頭のなかにない。頑固に絶対にやりきる。頑固に絶対にやりきるうえで、「でかい音で鳴らしている」という認知・認識が邪魔なものであれば、無意識的なレベルで感覚器を遮断してしまう。そうすると、本人だって、別の音が鳴っていれば、「くそうるさい」と思うレベルの音で鳴らしていも、でかい音で鳴らしてないというとになってしまうのである。感覚器のレベルでだましているから、ほんとうに、意識的な本人としては「でかい音で鳴らしている」という認知・認識がしょうじないのである。だから、頑固にやりきるけど、頑固にやりきることができれば、一切合切そんなことはやってないという認知・認識のまま生きていくことができるのだ。生活することができる。こういうきたない手を使うのは、兄貴だけではない。親父も名時。こうなると、兄貴のことを、本来なら、管理監督する立場の人間がおなじ盲点をもっているということになる。実際に、「うちのなか」で、そういうことをやりはじめたのは、きちがい親父だ。きちがい兄貴がやりはじめるよりも前に、きちがい親父がずっとやってきたことだ。これが重要なのである。けど、そんなのは、どれだけ説明しても、一般の人にわかるわけがない。そういうことの影響……きちがい親父の感覚の影響が……あるいは、きちがい親父が仏にやってきたのことの影響が……どういうふうにしょうじるか、一般の人はわからない。そういう「うち」で暮らしてきたわけではないので、わからない。