プリオンたんぱく質が脳内で増殖してある程度の量になっているとき、ある作業をすることができるかどうかということを考えた場合、プリオンたんぱく質が脳内で増殖してある程度の量になっているから、できないということがある。プリオンたんぱく質の量は、本人が、「まじないで」増減させることができるものではない。「すくなくなれ」「なくなれ」と命令しても、「すくなくならない」し「なくならない」。どうしてかというと、物理法則が成り立っているからだ。分子の運動ということについて、物理法則が成り立っている。なので、増殖してしまう場合は増殖てしまう。増殖をさまだけ、増殖しないようにするには、増殖させないようにする方法が必要だ。その方法はまじないのようなものではなくて、物理法則に合致したものでなければならないのである。
だから、むしろ、問題なのは物理法則のほうなのである。もし「できる」とか「できない」とかということを判断するなら物理法則に従って判断するべきなのである。しかし、他人のからだの状態は無視する傾向がある。
++++
できるかどうかということを判断する場合、脳みその内部的な状態を分子的なレベルで調べて、判断するわけではない。たとえば、まるまるという作業ができないと言っているAさんがいたとする。Bさんが、勝手に「だれだって、まるまるという作業はできる」と思っていたとしよう。だれだってできるので、Bさんにとっては、Aさんもまるまるという作業ができるということになっている。しかし、それは、Bさんのなかでそうなっているにすぎない。勝手に、Bさんがそういうふうに思い込んでいるだけだ。Bさんが、Aさんの脳内の、プリオンたんぱく質の状態を事前に調べて、そして、プリオンたんぱく質の状態が、こうだから、まだ、Aさんはまるまるという作業ができると判断しているわけではない。「見た感じ」Aさんがまるまるという作業をできると、Bさんが勝手に考えているだけだ。
++++
意識的な意志がどれだけ命令しても、できないことはできない。意識的な意志というのは、意識的な脳みその部位ということだ。意識的な脳みそが、命令しても、他の脳みそがその命令に従わない場合がある。あるいは、意識的な脳みそが、命令しても、ほかの脳みそがその命令を実行できない場合がある。しかし、意識的な意志を信じているものは、自分や他社において、意識的な意志が命令たことは、絶対にできるということになってしまっている。ほんとうは、ある状態では、自分もできないのに、そういう状態を無視してしまうのである。「意識的な意志が命令すれば、できる」と言っているいっているときは、そういうつもりになっている。それが絶対に正しいと思い込んでいる。しかし、思い込んでいるだけだ。実際には、意識的な意志は脳みその一部なので(脳みその一部で発生していることなので)ほかの脳みそや、その人を構成している身体を、完全に支配することはできない。ただ単に、「支配できる」と思い込んでいるだけだ。命令すれば、脳みそのほかの部分や自信を構成する身体が、命令をきくはずだと思っているだけだ。宗教的な信念と、まったくかわりがない。これは、一種の信念で、科学的な根拠はない。しかし、科学的な実験詐欺」と言いたくなるものがあり、本人の頭のなかでは「科学的な根拠がある」ということになっている。けど、信念であり、宗教的な妄想とかわりがないものだ。
+++++++++++
プリオンたんぱく質という物理的な存在がもたらすことに関しても、通常は、脳内の分子的な状態を調べて「できる」とか「できない」ということを判断しているわけではなくて、外面的な様子を見て「できる」とか「できない」ということを判断しているにすぎない。
その場合、「どんな状態でも、まるまるすることができる」「どんな状況でも、まるまるすることができる」「できると言えば、できる(言霊パワーで「できるできる」と言えば「できるようになるという意味)」と「他人」に言ってしまうのは問題がある。どうしてかというと、できない場合があるからだ。