精神世界の人というのは、生まれの格差・下の人にケンカを売っているようなところがある。『精神的な人の思考』のなかでは、常に、『物理的なこと』が無視されるのである。
すべてが、「精神」の話になる。しかし、われわれは、肉体をもっており、肉体を使って生活をしているのだから、肉体は、物理法則にしたがう。からだに取り入れてしまった物質の影響をうける。
どうして、からだに取り入れてしまった物質の影響をうけるかというと、分子レベルの運動があるからだ。結合や移動も含めて、運動と言っている。
分子レベルと言ったけど、もちろん、原子レベルの運動も含んでいる。これ以降、分子レベルと言ったら、原子レベルのことも含んでいると思ってほしい。
だから、「病気は精神から生まれる」というようなことは、ない。注射をして、物質が体の中に入れば、物質の影響をうける。
その場合、ものによっては、うけないような感じがする場合があると思うけど、かならず、うける。
量がすくなくて、なおかつ、すぐに「分解」されてしまうようなものに関しては、うけないような感じがするかもしれないけど、かならず、うける。
「分解」されたということは、分子レベルの運動の結果、ある物質が分解されたということだ。意識レベルにのぼるかどうかにかかわらず、分子レベルの運動はある。そして、構造的な変化をうみだしてしまうものに関しては、長期間、そういう身体を背負って生きるということになるのだから、当然、長期間、影響をうけるということになる。
分子レベルの運動の結果、なんらかの長期的な障害がしょうじたとすると、当然、その肉体をつかっている以上、生活に変化がしょうじる。これは、あることができるとか、あることができないということに、影響をあたえる。
特に、体内のなかで起こっている変化に関しては、表面から見て、判断するということがなかなかできないわけだから、問題がある。ようするに、腕がないとか足がないというような見てわかる障害ではなくて、体内の「見えない部分」に障害があると、他人や自分からは見えないわけだから、他人や自分の判断に影響をあたえる。
たとえば、Aさんと、Bさんがいたとする。Bさんが、見えない部分に障害を抱えているとする。その場合、Aさんからは、Bさんの障害が見えないわけだから、「Bさんができるかどうか」ということに関するAさんの判断に影響をあたえる。ヘビメタ騒音が脳内にあたえた影響、ヘビメタ騒音が副腎にあたえた影響は、他人からは見えない。本人だって、「見て」確認することは、通常できない。
その場合、「エイリさんは働ける」とそとから見て思った人は、ぼく(エイリ)が働けないと言うと、それは、あまえだと判断する。そして、「病は気から」「病気は精神からしょうじる」というような考え方をもっている人からすれば、「こころのもちよう」で、そんな障害はなおってしまうということになる。あるいは、最初から、障害はしょうじていないということになってしまう。
これが、やっかいなのだ。
きちがい家族によるヘビメタ騒音がどういう騒音なのかわかってない。それがどれだけ毎日の生活に影響をあたえるかわかってない。そして、それが、数千日も繰り返された場合は、言ってみれば「定着してしまう」「固定的な症状になる」ということが、わかってない。これは、物理刺激によって、しょうじた障害だ。
けど、経験した人じゃないと、わからないことなのだ。「そうなる過程」を一倍速で経験すれば、たしかに、そういう障害が(人間には)しょうじるということが、自身のからだをもってしてわかるのだけど、自分のことでなければ、わからない。
精神的なことだけを重視する人は、分子の運動を無視してしまう。あるいは、分子の運動の結果を無視してしまう。精神的なことだけを重視する人の足を切断すれば、血が流れる。これは、分子の運動だ。
さらに、その結果、足がなくなった場合は、そのときのナイフを構成する分子と、自分の足を構成する分子の運動の結果、足がなくなったということになる。精神的なことだけを住する人なのであれば、血が流れず、足をうしなうということはないのである。
精神的なことだけを重視する人が、致死量の青酸カリを飲み込めば、死ぬのである。
それは、青酸カリの分子と、その人の肉体を構成している分子の『運動の結果』なのである。「病気は精神から生まれる」と考えている人は、自分が致死量の青酸カリを飲んでも、死ぬことがないと思っているのである。
どうしてなら、「病気は精神から生まれる」からだ。
精神が、青酸カリの物理的な運動を受け入れなければ、肉体は、青酸カリの物理的な運動をうけずにすむのである。あるいは、青酸カリの影響は、精神がつくっているのである。
こういう、妄想は、人を傷つけるので、よくない。
自分の肉体にのみ、その法則を適応していればいい。ただ、本人がそう思っていても、本人が人であるならば……人間の肉体をもつのであれば……取り入れた物質の影響をうけることになる。不可避的に受けることになる。物質がある種の毒であれば、病気がしょうじる。
こういう人たちの考え方は、「病気にならない」と言えば、病気にならないと思っている言霊主義者とおなじなのである。思っているだけ……。肉体を無視したから、そういうふうに考えているだけだ。
けど、『考え』と『本人の肉体』はちがう。本人の肉体だって、人間の肉体なのだから、人間の肉体としての特質をもっている。その特質に反応する物質を取り入れれば、人間の肉体とその物質との間に物理的な運動がしょうじる。
これは、意識では、どうにもならない。この運動を意識で制御することがでない。この運動を意識で制御することができないので、この運動の結果は、意識とは関係なくしょうじる。
ただ、「俺は病気にならないと思っているから病気にならない」とうそぶいている人とおなじなのである。そういうレベルのことを言っているだけなのである。
むしろ、「俺は病気にならないと思っているから、病気にならない」と言うことは、肉体の分子的な運動の結果なのである。脳内の物質的な運動の結果なのである。そういうことを思える、そういうことを言えるというのは……彼らが無視している……人間の肉体のおかげなのである。『脳みそ』という臓器をふくんだ『人間の肉体』のおかげ……。
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本人の「精神」が現実をつくりだしているというのも、まちがっている。自分の精神が、現実の物質的な世界に影響をあたえているのである。影響をあたえているというのは、この場合は、現実をすべてつくりあげているということなのである。
たとえば、DS支配者が、ワクチンを接種させようとした……。これは、現実だ。
そういう現実もすべて「自分」の「精神」がつくりあげた現実だと、思い込もうとしているのである。こういう、「わな」がある。これは、まちがっている。
けど、いろいろな言い方で、このコンセプトがあらわれて、その人を幼稚な状態にしてしまうのである。その人の個人的な「精神」がすべての世界を構成しているなんてことはないのに、そうなのだと信じ込んでしまう。
このトリックは、いろいろなところで成り立っている。「精神が病気をつくる」いうのもこのトリックのひとつだ。分派みたいなものだ。
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自分の精神が、現実をつくっている……のである。けど、ちがう。
「自分の精神」が「現実のありよう」を決定しているというのは、その通りなのだけど、それは、自分がかかわっている範囲で、そのように『考えることができる』というだけの話だ。
別に、ほんとうに、物理的な現象まで、ふくめて、「自分の精神」が「現実」に反映しているわけではないのである。この、現実が自分にとってどういうふうに見えるかとという問題と、物理的な問題をごっちゃにしているだけなのである。
自分がかかわってない、世界の動き……他者の動き……というのは、自分の精神とは関係なしに動いている。他者は他者で、「自分の精神」があるということが、根本的にわかってない。他者も、自分のように「自分の精神」をもっている存在なのである。
これがまったくわかってない。
他者は、「自分の精神」のなかで、集合的であり、自分の精神との通りに動く他者なのである。これは、傲慢だ。ほんとうに、他者は他者で、「自分の精神」があるということが、根本的にわかってない。
自分の精神をもってる他者というのが、自分の精神のなかで生きている、他者全体なのだ。
だから、他者全体の動きからしょうじる結果も、自分の受け止め方次第ということになり、自分がつくりだしているということになってしまう。
完全にまちがっている。