これが、めちゃくちゃに、しんどいことになるのだけど、どうしても言っておく必要があるかなとは、思う。けど、俺にしたって、これをうまく説明できるのかわからない。これ、ほんとう、ためいきがでるよなぁ。
たとえば、こういうことを言う人がいる。
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「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、そういうことをもっと引き寄せることができる」
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これは、よく言われていることだ。みんな、そうだと思うだろ。みんな、その通りだと思うだろ。けど、ちがう。ちがうけど、大多数の人にとっては「真実」なのだ。気分的に真実なのだ。だから、うけがいい。けど、こういう発言は、二項目文とおなじで、生まれの格差・下の人には成り立たない。特に、生まれの格差(親)下の下の人には成り立たない。事実ではないのだ。「真実」ではない。環境の差を無視して、ただ単に「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」というような言葉を使えば、そういうことが引き寄せられると言うことは、あんまりいいことじゃない。というか、どうして、生まれの格差を無視してそんなことが言えるのだと思う。これは、まあ、特殊な感じ方だ。たとえ、この言葉が、生まれの格差・上と生まれの格差・中の人にとっては、「真実」であろうが、生まれの格差・下の人にとっては、真実じゃない。むしろ、これらのことを実行してしまうと、みじめな気持になり、健康にもわるいのである。しかし、たとえば、こういう言葉を言う人たちは、「すべての人にとって」正しいと思っている。自分の言葉は、すべての人にとって真実だと思っている。「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉を使って不幸になる人がいるとは思ってない。思ってないということが、生まれの格差・下の人にはわかる。どういうことかと言うと、生まれの格差・下の人は、「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、そういうことをもっと引き寄せることができる」と思っている人たちが、生まれの格差下の人にも、当然そういうことが成り立つと思っているということが、「わかる」。けど、それが、ほんとうにちがうのである。どういうことかと言うと、生まれの格・下の人の場合、「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと不幸を引き寄せてしまうのである。それは、その人の性格の問題ではなくて、その人の受け止め方の問題でもなくて、ただ単に、「まわりにいる人の」性格の問題なのである。きちがい的な頭を搭載して、ぶつかってくる人が家族のなかに何人もいる場合、きちがい的な頭を搭載して、ぶつかってくる人に「かこまれて」生活していることになる。『「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、いいことを引き寄せることができる』と思っている人たちは、ほんとーーに、ほんとーーに、ほんとーーに、そういうことについてわかってない。まわりにいる人が重要なのだ。まわりにいる人って、一種の「環境」なんだよ。環境のちがいで、ぜんぜんちがうということが、ほんとーーに、わかってない。