法則性詐欺の被害者は、たいていの場合、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下の人だ。この人たちが、こまった状態で暮らしているのは、二項目文の、一番目の項目を「してない」からではなく、また、「してなかった」からでもない。
ようするに、たとえば、「人に親切にすると幸福になる」と言った場合、その人が、幸福ではないのは、いままで、人に親切にしたことがないからではないということだ。あるいは、いままで、人に親切にした回数が少ないから、幸福なのではない状態でいるというわけではない。その人が不幸なのは、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下で、奴隷労働を突き付けられているからなのだ。なので、その人が、幸福になるには、その人に突き付けられた奴隷労働が、普通の労働にならなければならない。あるいは、その人が働かなくても、それなりの生活費がふれこまれるようにしなければならない。奴隷労働をしているから不幸なのに、奴隷労働をしているという部分をまったく改善せずに、幸福になるということはないのである。これは、ヘビメタ騒音でもおなじで、ヘビメタ騒音で不幸感を多く感じるのだから、ヘビメタ騒音が鳴りやまなければならないのである。当時のことを言うなら、そうだ。まあ、ヘビメタ騒音のことを出さずに、奴隷労働うんぬんということについて語ろう。どうして、奴隷労働しなければならないのかと言うと、じつは、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下だからなのだ。ここを理解しなければ、ただ単に不幸を拡大していることになる。
基本的に言って、きれいごとの二項目文を言う人は、やる人のエネルギー消費について考えていない。やる人というのは、二項目文を実行しようしている人のことだ。どうして、実行しなければならないかというと、不幸だからだ。幸福ではないからだ。二項目文は、人に対する助言なので、その助言を受ける人は、「欠乏している状態」なのである。しあわせになる方法であれば、いま現在、しあわせではない人が対象なのである。成功する方法であれば、いま現在、成功してない人が対象なのである。欠乏があるから、それを満たすための方法を探し求めているわけだ。みたされていれば、そもそも、その方法を使わなくてよいのである。どうしてかと言うと、みたされているからだ。そして、これも見落としがちなのだけど、その方法を教えてやるほうは、みたされているほうなのである。たとえば、「Xをすれば、成功する」と言っている人は、すでに、成功した人で、成功してない人に語り掛けているのである。「Xをすれば、しあわせになる」と言っているつとは、すでに、しあわせな人なのである。しあわせな暮らしをしている人なのである。成功している人が、成功してない人に教えてあげる、二項目文。しあわせな人が、ふしあわせない人に教えてあげる、二項目文。けど、その二項目文には、生まれの格差がでてこない。二項目しか出てこない。ほんとうは、生まれの格差が、二社のちがいをうみだしている。生まれの格差・上だということが、成功している状態をつくりだしているし、生まれの格差・下だということが、成功してない状態をつくりだしている。奴隷労働をおしつけられて、不幸な生活をしている。なので、「成功したい」「しあわせになりたい」と思うわけである。欠乏がある。
エネルギー消費のことについて、語りたい。欠乏がある人は、ただでもくるしい生活をしている。それなのに、二項目文を実行しようとすると、エネルギーを消費してしまうのである。残り少ないエネルギーを消費してしまう。また、二項目文を言う人は、実際には、生まれの格差・下の状態を経験してない。経験してないので、「どんな状態だってXはできる」と言うことができる。また「どんなにくるしくても、Xはできる」と言うことができる。「何回でも、Xをすればいい」と言うことができる。
二項目文を実行する人は、Xをするエネルギーをもう、残してないかもしれない。エネルギー消費の観点から言うと、二項目文を実行する人は、Xを「何回も」するエネルギーをもう、残してないかもしれない。みたされている人は、みたされていない人の状態がまったくわかってない。生まれの格差・下で、みたされてない人は、相当にエネルギーつかってしまっている。つらくて、くるしい日常生活を成り立たせるだけで、もうエネルギーを、ほとんど全部つかってしまっている。Xをするようなよけいなエネルギーがない状態だ。
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