走っている人に向かって、走ってない人が「ぜいぜい息をする必要はない」と言っているようなものなんだよ。走っている人に向かって走ってない人が「くるしいと思う必要はない」と言っているようなものなんだよ? ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「睡眠は制御できるので、睡眠障害になる必要はない」と言っているようなものなんだよ。ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、くるしく感じる必要はない」と言っているようなもなのだよ。ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「つかれる必要がないから、つかれる必要はない」と言っているようなものなんだよ。
走っているとき、呼吸がくるしくなって、「くるしい」と感じたとしよう。くるしいというのは、気持ちの表現だ。あるいは、走っているとき、呼吸がくるしくなって、「つらい」と感じたとしようつらいというのは、気持ちの表現だ。とりあえず、感情的な表現と身体の物理的な反応をわけて考えるとする。「くるしい」「つらい」そういうのは、感情的な表現だ。いっぽう、身体の物理的な反応というのは、身体の分子的な運動によってもたらされる反応だ。原子的な反応も、分子的な反応の中に含まれているとする。身体が正常なら、そういう刺激に対してそういう反応があるのである。これは、意識的な意志が制御できるものではない。走ろうとして走っているのだから、意識的な意志は、走るという善的な行為に影響をあたえている。あたえているのだけど、身体の反応すべてをコントロールできるわけではない。「くるしい」ので、走るのをやめるというのが身体の反応に対するひとつの答えだ。「くるしい」と感じるのは重要ことだ。神経がブロックされていて、「くるしい」と感じることができなかったら、走って死んでしまう。ちゃんと、そういうしくみがあるから、意識的な意志の爆走を制御している。意志をうみだす脳みその部分とそれ以外の脳みその部分、神経、感覚器をわけるとすると、意志をうみだす脳みそ以外の脳みその部分、神経、感覚器が意志をうみだす脳みその爆走をふせぐように働いているのである。ストレス反応は、身体を維持するために必要なしくみなのである。全体的なしくみなのである。この全体的なしくみのなかに、意識的な脳みそが含まれているわけで、意識的な脳みそが、それ以外の脳みその部分、神経、感覚器を完全にコントロールしているわけではない。したがわせているわけではないのだ。けど、根性論の人や、努力論の人や、人に向かって「どんな状態だって、まるまるはできる」と言ってしまう人は、こういうことがわかってない。しかも、他人に言う場合は、自分のことではないので、他人の状況を簡単に無視できるのである。無視すれば「ない」のとおなじだということになってしまう。しかし、他人のからだのなかでは、全体的なしくみが、意識的な意志に影響をあたえている。影響は、無視できない。勝手に無視して、話をするな。