ほんとう、俺はどうなっちゃうのかね?
つまーーんない。
ほんとうに、つまんない。
「口癖が、人生をつくる」とか言っている人がいるでしょ。これは、説得力があるように思う人が、わりといると思うんだよね。
けど、まちがっている。これは、まちがっている。実生活が、口癖をつくるのである。実生活のなかで、すでに、「それ」がはじまっているのである。
口癖のほうは「結果」なのである。口癖が「原因」だと思っているわけでしょ。ちがうんだよね。
たとえば、水俣病でくるしくなった人は、「くるしい」と言うわけ。「くるしい」「くるしい」と言うから、くるしくなった!わけじゃないわけ。けど、ある人が、水俣病の人にあったとき、水俣病の人が「くるしい」「くるしい」と言ってたとする。
そうすると、言霊的な思考をする、ある人は、「くるしい」「くるしい」と言う「から」くるしくなった……と考えてしまう。これは、原因についてまちがった考え方をもっているということなんだよ。
けど、言霊が好きな人は、そういうことがわからない。「くるいしくるしい」と言う「から」くるしくなったのだという考え方をすてられない。
生まれの格差があるから、すでにそういう体験をしているわけ。すでに、起こったことなんだよ。わかるかな?
すでに起こったことに関して、感想を言っているだけなんだよ。生まれの格差があるから、構造的に不幸な出来事がしょうじるようになっている。
きちがい的な親が支配しているうちでは、不幸な出来事が起こるようになっているんだよ。だから、そこで、生きていくしかなかった人が、不幸な出来事について感想を言っているだけだ。
たとえば、きちがい的な親が支配しているうちで育った人がAさん、言霊思考にとりつかれている人がBさんだとする。
Aさんのことをまったく知らないBさんが、Aさんが「つらいつらい」と言っているのをたまたま見かけたとする。その場合、Aさんが「つらいつらい」と言う「から」Aさんの身の上につらいことが起こるのだと、言霊思考にとりつかれているBさんは考えてしまう。Aさんはきちがい的な親にやられて、「つらい」思いをしたので、「つらいつらい」とその気持ちを言ったわけ。「つらいつらい」と言う前に、「つらい」思いをしているわけ。すでに起こってしまったことなんだよ。わからないかな?
ともかく、言霊的な考えをもっている人は、出来事の発生順番について、ほぼ、確実に、まちがった考えをもつ……ことになっている。これ、ことになっていると言っていいのかな?
言霊を重視していているのだから「本当の原因」については、まったく考えない状態になっていのである。「言ったからそうなった」という因果しか認めてないのである。それならば、時系列的な発生順番を無視することは簡単なことだ。ほぼ、必然的に、時系列的な発生順番を無視することになる。
ぼくがつまらないのは、ヘビメタ騒音で「楽しく感じる精神回路」がこわれたからだ。ヘビメタ騒音の繰り返しが、ぼくがもっていた「楽しく感じる精神回路」をこわしたのだ。
まず、基盤がこれだ。
そして、実際にヘビメタ騒音によって破壊された生活をしていると、不愉快なことが、多く発生するようになるのである。たとえば、ヘビメタ騒音によって、働けないからだになると、「働けない」ということを認めない、人たちが、「エイリさんは働けるのに働かない」と勘違いして、説教をしてくるようになるのである。
そういう「説教攻撃」をうける状態は、とても、不愉快な状態なのである。そういうことがつみかさなると、人生が「つまらなくなる」のである。
だから、「楽しく感じる精神回路を破壊されたこと」や「不愉快な出来事」が原因で楽しくなくなるのである。手短に言うと、こういうことなんだけど、ヘビメタ騒音が破壊したのは「楽しく感じる精神回路」だけではない。手短に言うと、こういうことなんだけど、ヘビメタ騒音が破壊したのは「働けるからだ」だけではない。言霊にこだわっている人や、ヘビメタ騒音に「楽しく感じる精神回路」や「働けるからだ」を破壊されなかった人は、まるで、まるで、わかってない。わかってない。
そういう場合、じつは「つまらないというからつまらなくなる」「口癖が人生をつくる」と言われること自体が、不愉快なことになるのである。
つまり、ヘビメタ騒音という一見、関係がない理由が、「つまらないと言うからつまらなくなる」「口癖が人生をつくる」と言われるという「不愉快な現実」をつくりだしているのである。
どうして、「不愉快」だと感じるかと言うと、ヘビメタ騒音で不可避的に 「楽しく感じる精神回路を破壊」され「働けないからだになる」のに、言霊思考にとりつかれている人は、それを無視して「言ったからそうなった」と解釈するからなのである。
ぼくが「つまらない」と感じるのは、ヘビメタ騒音が鳴っていたから、なんだよ。そして、言霊思考にとりつかれている人に会ったとき、「つまらない」と言った。その場合、言霊思考にとりつかれている人は、「つまらないと言うからつまらなくなる」と思ってしまう。言霊思考にとりつかれているのでそう思うわけだ。
そのあと、ぼくが、ヘビメタ騒音のことを言ったとしても、言霊思考にとりつかれている人は、「エイリさんがつまらないのは、つまらないつまらないというからだ」と思っていて、ヘビメタ騒音のことを無視してしまうのである。ヘビメタ騒音が「つまらない」と言わせる原因なのに、「つまらない」と言ったということが、「つまらない」と感じる原因だと勘違いてしまうのである。
これは、「不愉快なこと」だ。なんで、これが、愉快なことや、中立的なことになるのか?
不愉快なことに決まっているだろ。
これに関しても、「すべては、受け止め方の問題だ」と言うようなわけのわからない逃げ口上(にげこうじょう)がある。 「不愉快なことだと感じるのが悪い」のだ、「不愉快なことだと感じるからダメなのだ」というようなことを言う人がいる。
これに関しては、もう、どこかに書いたから、いいか。
けど、ヘビメタ騒音で「つまらなくなった」のに、「つまらないと言うからつまらなくなる」と言われることは、不愉快な出来事だ。中立的な出来事ではない。これ、不愉快なんだよ。原因について考え違いをしないでほしい。そして、ヘビメタ騒音の影響を無視しないでほしい。