ヘビメタ騒音で、くるしいだけの人生だったな。ぼくがやりたかったことなんて、ヘビメタ騒音がなければ、できたことだ。全部できた。きちがい親父がきちがい親父でもできた。きちがい親父がきちがい親父でも、ヘビメタ騒音がなければ、できた。願いがかなった。ヘビメタ騒音の出現で、全部できなくなった。そして、「できないのはおまえのせいだ」と言われるようになった。そういうことを言うやつは、みんな、ヘビメタ騒音がない。きちがい兄貴も、きちがい親父もない。どれだけのことがつみかさなるか、まったくわかってない。「コツコツ努力すれば成功できる(願望がかなう)」……コツコツ努力すると、身も心もボロボロになる。ヘビメタ騒音なかでしているのだからそうなる。ヘビメタ騒音を十五年間あびた体で、努力するのだから、そうなる。
これ、みんな、わかってないけど、努力の結果なのだ……。「楽しめないこころ」「だるい身体」……みんな、努力の結果だ。じゃあ、努力しないことができたかというとそうではないのだ。きちがいヘビメタ騒音のなかで生きていくということ自体が、たえまのない努力なしでは成り立たないことだ。ヘビメタ騒音が終わったあとだって、おなじだ。もう、身体も精神も崩れている。「ヘビメタ騒音がなかった場合の人生とはちがう」。ヘビメタ騒音がなかった場合の精神ではない。ヘビメタ騒音がなかった場合の身体じゃない。影響をうけている。ほかの人たちは、ぼくの影響を、無視できる。ぼくがヘビメタ騒音でこうむった影響を、ほかの人たちは、無視できる。過小評価できる。「あったって、ないもの」にできる。そりゃ、その人たちが、きちがい家族によるヘビメタ騒音でくるしんだわけじゃないから。ちなみに、この世で一番嫌いな音がヘビメタだったので、ヘビメタ騒音と言っているけど、かならずしも、ヘビメタである必要はない。その人にとって、一番嫌いな音が、長時間、となりの部屋で鳴っていたということだ。これは、爆音だ。きちがい兄貴が、爆音で鳴らしたいから、爆音じゃないと、書き換えてしまったのだ。ヘビメタが好きな、兄貴の友達ですら、「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」と心配するような音だ。普通の人にとってはそうなのである。きちがい兄貴にとっては、そうではなかったけど……。これ、きちがいの言い換えがある。感覚器的な言い換えがある。無意識的な言い換えがある。それがずるいのである。ずるすぎて、ほかの人は、かんちがいしてしまう。もう、俺はいやだ。ほんとうに、普通の、幼稚園レベルの騒音で文句を言っているわけじゃないから。最初から、普通じゃない。ほかの人が経験したことがないような騒音なのである。むりなのである。あの中で、勉強するのは、むりなのである。普通に暮らすのはむりなのである。けど、「ない」人は、「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」と言う。できないんだよ。「鳴り終わったら、眠れる」と言う。眠れないんだよ。生活自体が、ボロボロになる。俺が説明しても、ほかの人にとって、「兄のヘビメタ騒音」というものは、たいしたものではないので、俺が「できない」ということを認めない。そうなると、トラブルがしょうじる。不可避的なトラブルだ。
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