あの騒音生活をしながら、学校に通うということが、どれだけ、精神と身体を破壊するかまったくわかってないな。
そういう努力行為をしたから、だめになっている。
通勤ができなくなっている。
ともかく、きちがい兄貴はものすごい音で鳴らしているんだよ。それは、鳴らしてはいけない音だ。ほかのうちでは鳴ってない音なんだよ。きちがい兄貴だって、ほかのうちだったら一分も鳴らせない音なんだよ。
事実、いま、きちがい兄貴がすんでいるマンションではきちがい兄貴は、一分も鳴らしてない。けど、「うち」ならよいのだ。「おやじのうち」なら、絶対に鳴らしていいということになってしまう。
考えるまでもなく、「このくらいの音で鳴らしていい」と思ってしまう。
そして、きちがい兄貴はきちがいだから「このくらいの音」というのが、ありえないほどでかい音なのだ。横にいるのが……家族だから……弟だから……まったく気にしないで鳴らした。
あとは、ヘビメタ騒音道具を、自分が買ったという気持がある。こういうことが、どれだけ、影響をあたえるか、「一五〇〇円のハンダゴテ」のことでもめたことがない人にはわからない。きちがい兄貴の意地だって、わからない。きちがい親父の意地だってわからない。
いのちがかかっているんだからな。
ハンダゴテを買ってやらないことに命がかかっている。
一円だって出したくないという無意識的な気持は絶対なんだよ。親父の場合はな……。
焦点になっている。出してやるかどうかが焦点になっている。兄貴の場合も、一秒だってゆずってやらないということが、焦点になっている。絶対の意地で、全部の時間、自分が思ったとおりの音で鳴らすということに「いのち」がかかっている。
これ、大げさな表現じゃないのである。もし、俺が、自分の維持を通すとなると、きちがい兄貴を殺さなければならなくなるのである。もし、きちがい兄貴が、ハンダゴテのカネを親父からうばうとなると……出してもらうとなると、きちがい親父殺さなければならなくなるのである。そういうことなのである。
「いのちがかかっていること」なんだよ。
親父は、一円に命がかかっているけど、兄貴は、一日に一秒だってゆずらないことに命がかかっている。
そして、きちがい兄貴はカネのことで親父に意地悪をされたので、自分がアルバイトをして買ったヘビメタ騒音道具で鳴らすなら、どれだけ鳴らしたって、文句を言われる筋合いがないと思っているんだ。
この思いも強烈なんだよ。いのちがかかっている。
こういうことが、凡人佐藤にはわからないのである。普通の人にはわからない。どれだけの意地がかかっているかわからない。ほんとうに、俺が兄貴を一秒でもしずかにさせようとしたら、そのとき、殺さなきゃならないんだよ。
一秒だってしずかにしてやらないことに命がかかっているんだよ。一秒だってゆずらずに、全部、自分が思ったとおりにやりきることに、いのちがかかっているんだよ。
絶対の意地で、ゆずらない。