「すべては思いようだ」
……ほんとうにそうなんだろうか?
じゃあ、「すべては思いようだ」と言っている人の知覚や感覚はなんなんだ? 意思が「知覚していることとは反対のことを知覚するようにしよう」と思えば、反対のことを知覚することになるのか?
意思が「感覚していることとは反対のことを感覚するようにしよう」と思えば、反対のことを感覚することになるのか? それなら、最初に知覚し、感覚したものはなんなのか? どうして、意思で、その、知覚し、感覚したものを、くつがえすことができるのか?
くつがえした後の知覚や感覚を信用できるのか? 信用できるなら、知覚や感覚は必要なく、意思だけがあればいいということになってしまう。しかし、それならば、なぜ、最初の、知覚や感覚はあるのか?
知覚や感覚が意思に情報をあたえているのだから、意思のほうは、知覚や感覚を受け取る側のほうなのである。意思が勝手に、知覚や感覚をつくるというのであれば(発信して書き換えるというのであれば)それは、意思という妄想のなかですごしているということになる。これは、現実無視にほかならない。
意思がつくった心象のほうを、現実だと思い込めばいいということになってしまう。「すべては思いよう」というのは、じつは、きちがいのすすめだ。自分の知覚や感覚を信用せず、ただ単に頭の中で作った心象を現実だと思い込めばいいという話なのである。
「頭の中で作った心象」と書いたけど、これは、意思によってつくられた心象のことである。