ほかの人は『きちがい的な家族』の『きちがい的な意地』がわからない。ほかの人は『きちがい的な家族』の『きちがい的な感覚』がわからない。どうしてかというと、きちがい的な家族がいないからだ。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいない。それはその人にとっては、いいことだ。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいるということがわからない。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいると、どういうことにかなるのか、自分の経験をとおして、理解してない。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいるということが、どういうことをうみだすのか、自分の経験をとおして、わかってない。家族として毎日一緒に生活をしているということは、ほかのこととはちがうことなのである。たとえば、アドラーは、「(相手がどれだけ)ガミガミ言ってきたって、気にしないことはできる」というようなことを言う。けど、その「がみがみ言ってくる相手」との関係がわからない。いっしょに住んでいるのかどうか? そのガミガミ言ってくる相手は、親なのかどうか? 親という属性を持ってしまうと、ただ単に「一緒に住んでいる」ということとはちがった現象がしょうじる。それは、まわりの人間が、「親」だとみなすし、「親」だということが、事実だから、「他人」である場合とはちがった現象がしょうじる。ようするに、「親である」ということが公認さされば、たとえば、「ガミガミ怒る」ということに関しても、公認されてしまう部分がある。いっしょに住んでいるのかどうか、家族なのかどうかというのは、人間の行動に影響をあたえる。他人と他人のあいだに生じることに「関する」ルールと、親と子供のあいだに生じることに「関する」ルールがちがうのである。そして、その違いが、共同幻想によって「承認」されているのである。共同幻想によって「承認」されているということは、じつは、個々の親子関係にも影響をあたえる。他者が、その者たちを親子だとみなせば、他者がその者たちを親子だとみなさない場合とは、ちがった反応をするのである。ちがった反応には、「根拠があり」その根拠が、言ってみれば、共同幻想なのである。そして、親と住んでいる期間が、20年間なり18年間だとして、未成年期における親の影響というのは、でかい。なので、青年期になったとたんに、未成年期の影響が全部なくなるというわけではないのである。ところが、アドラーのような単純な人は、「過去は関係がない」「トラウマはない」と考えてしまう。未成年期の出来事は、成年期の状態に影響をあたえないという考えにとらわれているのである。そして、この考えは、まちがっている。未成年期の出来事は、成年期の状態に影響をあたえる。「過去は関係がない」と言いたいばかりに、未成年期の出来事を無効化しようとする試みは、まちがっている。
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ヘビメタ騒音『で』寝不足になるということが、どういうことだか、わかってないんだよなぁ。凡人佐藤のような常識人は、まるでわかってない。そりゃ、凡人佐藤のような常識人には、きちがい家族によるヘビメタ騒音という経験がない。きちがいがどういう感覚で鳴らすかわかってないな。きちがい的な意地で鳴らすけど、きちがい的な意地で鳴らしたということは記憶にないという態度なんだよ。だから、こまる。自分で徹夜をしたくて、徹夜をした経験はあるけど、きちがい家族によるきちがい的な騒音で、しかたがなく、眠れなくなったという経験がない。それなら、なんとだって言える。ところが、そういうちがいについて、こいつらは考えない。こっちが言っても無視する。そういう部分では、きちがい兄貴に多少、似ている。あくまで、たしょうだけどね。どっちも、「ヘビメタ騒音の影響」は無視するわけだから、その点だけをとれば、すこしは、似ている。こっちの「事情」を無視する人に対する嫌悪感はあって当然だ。あるいは、憎しみと言ってもいいかもしれない。そりゃ、そうだろ。きちがいヘビメタ騒音『で』できなくなったと言っているのに、きちがいヘビメタ騒音の影響を無視するのだから、憎しみがしょうじる。それは、きちがいがい兄貴の行為にしょうじた憎しみや、きちがい兄貴そのものに対する憎しみの、『一部分』だ。きちがい兄貴が鳴らしたわけで、その人たちが鳴らしたわけではない。だから、ぜんぜんちがう。きちがい兄貴が無視して鳴らした。これは、重要なことだ。その人たちは鳴らしていない。これは、重要なことだ。しかし、気ちがい兄貴に対する怒りが、その人たちに対しても、むけられる。部分的なことだけど、これははしかたがない。怒りがたまっている状態なのだから、そうなる。怒りがたまっている状態で、ヘビメタ騒音の影響を無視する人たちと話せば、怒りの矛先が、その人たちに向かうということは、無理からぬことだ。無視という点では一致している。これは、怒りの集まる「ポイント」になる。焦点になる。
ヘビメタ騒音の影響……を無視して、『わかったようなことを言ってくる相手』の態度に我慢をしながら話をしなければならないということになる。怒りをがまんして話してやっている……んだぞ。わかっているの? そこ~~?? ユーは、そこ、わかっている??
けど、まあ、こういうことで、「おこれば」……エイリさんは未熟だから怒っているんだ……ということになってしまうのである。そうじゃない。ヘビメタ騒音の経験が長いからそうなる。きちがい兄貴の態度が、普通の人がわかるような態度じゃないからそうなる。そりゃ、何年間も、十数年間も、毎日やられて、勉強ができず、生きるのを邪魔されているのに、怒りがしょうじないわけがないだろ。たとえばの話だけど……これで、俺が「無職」であれば「無職で社会経験がないから(そんなことで怒っている)」と思ってしまうのである。きちがい家族と一緒にすんだことがない常識的な人はそういうふうに解釈してしまう脳である。たとえばの話だけど……これで、俺が「ひきこもり」であれば「ひきこもりで社会経験がないから、そんなことで不愉快な顔をしている」ということになってしまうのである。きちがい兄貴が「常識」を無視して、きちがい的な音を鳴らすということに、きちがい的にこだわりつくすと、連鎖が連鎖をよび、そういうことになってしまうのである。それなら、生きにくくなって当然だが、これまた、きれいごとですまされてしまうのである。「生きにくさ」に関しても、教授の言っていることのほうが正しいと、凡人佐藤は判断してしまうのである。どれだけ、アホなんだよ。「生きにくさ」に関して、俺が教授から学ぶことはない。その教授とやらは、俺よりもずっと生きやすい状態で暮らしている。それは、そのときだけではなくて、生まれてからずっとそうだ。俺のほうが「生きにくさ」において「専門家」なのである。ところが、佐藤のような凡人は、「生きにくさ」に関しても、心理学の教授のほうが正しいことを言うと思っているのだ。こういう、アホ。アホすぎる。