いろいろあって、ぼろっぼろになった。もう、建て直せないな。俺は、よくやった。俺は、よくやった。もう、いいや……。ほんとうに、つらかった。
感情が平たん化してだめだ。これ、言いようがないんだよな。言いようがない。
もう、つかれたなぁ。日曜日のこの時間も、ヘビメタが鳴ってなぁ。日曜日のこの時間のヘビメタが、次の日の日中の活動に影響をあたえるとは、ヘビメタ騒音にやられてない人は考えないんだよな。夜、眠るときだって、朝、起きなければならないときだって、遅刻をしそうになって学校に向かっているときだって、あらゆる時間に、影響をあたえるよ。それは、走ったら、息があがるといったタイプの反応、走り続けたらつかれるというタイプの反応とおなじだ。ようするに、「意志で」ストップすることができないのである。影響をうけないようにしようと思えば、影響をうけないことが可能だと……いうわけではないのである。ところが、これも、きちがいヘビメタ騒音にやられたことがない意志教徒が、『影響をうけないことは可能だ』と言いやがるのである。こんなの、39度のお湯にのんびりつかりながら、1度の水につかっている人に対して、1度の水の影響をうけないようにしようすれば、それは可能だといっているようなものだ。こいつらは、なにもわかってない。
たとえば、この文章を読むのは、一分間もかからないだろう。けど、その一分間、持続してきちがいヘビメタ騒音が鳴っているということは、その一分間、不可避的にヘビメタ騒音の影響をうけるということになる。そして、たとえば「日曜日、約13時間ヘビメタ騒音にたたられて、つらかった」と言ったとしよう。これも、数秒で終わる発言だ。しかし、実際の13時間というのは、その数秒では、表現できないものなのである。「どれだけ、つらいか」……と言ったって、佐藤のような凡人は、その意味がわからない。「鳴ってたとしても、たいしたことじゃない」「鳴り終わったなら関係がない」と思ってしまうのだ。「関係がないわけないだろ」と言ったって、そりゃ、自分で体験してみなければわからない。そういう日曜日が毎週毎週一年間繰り返されたら、やはり、影響が出る。ヘビメタが鳴っているあいだ勉強ができないとなったら、その影響をうける。そういう影響の結果、佐藤ような凡人に「鳴り終わったなら関係がない」と言われるようになるのだ。そりゃ、経験してない人にとっては、影響は、鳴っているときだけに限られるように思えるかもしれないけど、そんなものじゃない。