基本、つまらない。感情が、死ぬ。
きちがいヘビメタがはじまって、いろいろとこまったことがあったけど、そのうちのなかで、一番こまったことは、感情が死ぬということだ。繰り返しで、そうなる。ところが、繰り返しでそうなるということがわかってない人が、いろいろなことを言ってくる。この人たちは、ヘビメタ騒音の影響を無視している。ヘビメタ騒音の影響を無視する人たちは、基本的に言って、「私はオッケーだが、あなたはオッケーではない」というタイプの交流をしようとする人たちなので、やられたこっちは、不愉快になる。そいつらがオッケーなのは、きちがいヘビメタ騒音にやられてないからだ。毎日、十一歳から、きちがいヘビメタ騒音が続くということがなかったからだ。そういうことを、経験しない人が、影響を推し量り、無視して、助言してくる。その助言は、役に立たないことなのである。けど、役に立たないということを言ってしまうと、その人たちは、傷つく。さらに、攻撃的になる。そして、ぼくが無職なら、無職で、相手は、目下の人間だと思うわけだ。おとっている人間だと思っているのである。それも、ようするに、ヘビメタ騒音の連続で、働けないからだになったということなのに、それが、……ヘビメタ騒音の影響を無視するからわからない。あったときに、こちらが無職であれば、無職であるということは「所与の条件」なのである。
ともかく、いろいろとつみかさなるのだけど、感情が死ぬ。感情が死んでいく。そうなると、反応速度が遅くなるのである。反応が鈍くなるのである。それも、ヘビメタ騒音の影響なのに、こいつらは、わからない。俺が、ヘビメタ騒音の影響だといっても、ヘビメタ騒音を俺と同じ時間の長さ、俺とおなじ期間の長さ、経験した人じゃないと、影響のでかさがわからないのである。「そんなことで、覆せるものではない」ということが、根本的わかってない。ヘビメタ騒音のなかで「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」となんか言っても、だいじょうぶじゃないのである。だいじょうぶにならないのである。ヘビメタ騒音にやられて、元気がない状態で「元気だ。元気だ」と言っても元気にならないのである。きちがいヘビメタが、ものすごい音で鳴っている状態が、まるでわかってないんだよな。きちがい兄貴の大都がまるでわかってないんだよな。きちがいヘビメタがずっと鳴ってた日の次の日、どれだけ、つかれはてている状態で動いているのか、まったくわかってないんだよな。きちがい兄貴だって、わかってないけどね。これ、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい親父のように無視して、わからないままなんだよな。けど、きちがい兄貴の感覚やきちがい兄貴の態度全体というのは、いっしょに住んでいる人しかわからない。そして、ヘビメタ騒音が、どれだけ影響をあたえるか、やられてない人はわからない。ヘビメタ騒音が鳴っている時間だけではなくて、ヘビメタ騒音が鳴っていない時間に、どれだけの影響をあたえるか、まったくわかってない。で、それは、言わないからわからないのではなくて、ぼくが言っても、わからないのである。その人に、ぼくとおなじ経験がないとわからない。一日のなかでどれだけこたえるか、わからない。人生のなかで、どれだけの影響があるかわらない。そいつらはみんな「鳴り終わったら」「影響もきえる」と思っている。ぜんぜんちがうのに、わかってない。これも、どれだけ説明しても、実際にぼくのからだで経験した人じゃないとわからないところがあるんだよ。そういうことをぬいたとしても、想像力がないやつらだなとは、思うけど。そういう、想像力がないやつらに、自動的にぼくが!ばかにされる。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。ヘビメタ騒音の「効果のひとつ」にそういうものがある。かならず、誤解をされるのである。誤解の素をつくっているのは、きちがい兄貴だ。ぼくは、ハンダゴテ事件について書いたけど、ハンダゴテ事件は、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだに起こったことだ。けど、しくみが、まったく同じなのである。きちがい兄貴にわかりやすいように、きちがい兄貴が「やられるがわ」のケースを説明したのだけど、きちがい兄貴は、きちがい兄貴が「やるがわ」である以上、理解しない。同じ理屈が成り立っている。おなじ脳みそのしくみが成り立っている。きちがい親父ときちがい兄貴でおなじなんだよ。で、きちがい的な家族がやることに関しては、普通の人は、「みんな」誤解をする。誤解をするんだよ。きちがい家族にやられたことがない人は、「みんな」誤解をする。だから、「やられたほう」が板挟みになる。そういう構造も、ずっとずっとおなじだ。心理学の専門家を名のるやつも含めて、みんな、誤解をしている。単純、単細胞。単純理解。まちがっているのに、まちがっていることに気がついてない。そんな、直線的な理解でわかるはずがない。「いっぽんせんのりかい」なんだよ。きちがい家族にやられてない人は、きちがい家族がやったことに関しても、きちがい家族ときちがいではない家族のあいだに起こったことも、「いっぽんせん」で理解してしまう。これ、わかる? わからないだろうなぁ~~。わかるわけがない。
ともかく、騒音の繰り返しで、感情が死ぬ。その場合、ヘビメタ騒音を経験してない人が言う、助言というのはまったく意味をなさない。むだどころか有害。そして、そういう「こうりゅう」がまた、「この世はめんどうくさい」とか「この世はいやだな」とか「他人はいやだな」という認識をうみだすのである。だから、きちがい家族に、しつこくしつこく、やられた人は、この世で、生きにくくなる。きちがい家族にやられたことがない人が「この世の生きがたさ」について語って、なおかつ、きちがい家族にやられたことがある人のことに関しては、ごく自然に誤解をしやがるからなぁ。わかる? 佐藤(仮名)。単純。単純すぎる。佐藤さんはまるでわかってない。単純すぎる。理解のしかたが「一直線」。「いっぽんせんのりかい」。そういうレベル。そういう理解度。