その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なことなのかどうかについて、ちょっとだけ、書いておく。結論から言うと、その前の文脈が重要なことになるので、なんとも言えないということになる。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが男性で、Bさんが女性で、ふたりは、つきあっていた。あるとき、Bさんが慢性疲労症候群になって働けなくなった。それまで、Bさんは看護師として働いていた。Bさんが、「からだつらい」ということをAさんに言った。Aさんは、「慢性疲労症候群なんていうのは、病気のうちにはいらない」と言った。Bさんが「私がどんなにつらいか、Aさんにはわからない」と言った。そのあと、AさんがBさんに「相手が否定できないことを言うのはずるいぞ」と言った。
まあ、こういう文脈があった場合の話をしてみよう。いきなり「否定できないこと」を言ったわけではないのだ。否定できないことというのは、相手が否定できないこと、という意味だ。相手が否定できないことを言うのは、そもそも、きたないことだというのが、その人たちの主張なのである。ここでは、Aさんの主張だ。けど、文脈がある。Aさんが、さきに「Bさんのつらさ」について、否定している。話のなかでは出てこないけど、Aさんは、Bさんに対して「病気に、逃げるな」というようなことを言っているのである。まあ、そういうことを付け足したとしよう。この場合、Bさんを侮辱している……とぼくは思う。しかし、アドラー主義者は、そういうことを言って、まったく気にしない。自分が正しいと思っている。じゃあ、アドラー主義者が、おなじように……Bさんと同じ程度の慢性疲労症候群になったばあい、働けるのかというとそうではないのだ。アドラー主義者だってからだがきつくなって働けなくなる。しかし、今現在、アドラー主義者がそういうことを経験してなければ、アドラー主義者にとっては、慢性疲労症候群なるものはそういう程度のものでしかないのである。そういう認識しかない。だから、「病気に逃げている」「働きたくないから病気に逃げているだけだ」というようなことを言う。これは、ぼくの考えでは、相手を侮辱していることになる。しかし、アドラー主義者は、そういうふうには感じない。自分が正しいことを言っていると感じて、自分の発言を訂正したりしない。こういう人間が「さとる」のは自分が動けなくなってからだ。自分が働けなくなってからだ。しかし、アドラー主義者が実際にそういうふうに、働けなくなると、アドラー主義者は、適当なことを言って、間違いを認めないし、自分が病気で働けないのはあたりまえだということを言い出すのである。自分のかつての発言は気にしないのである。そういう、手前勝手なところがある。これは、「人間は働くべきだ」と言っていた人が、無職になったときにも、発揮されることだ。「自分の場合は」「あたりまえ」なのである。むかし、自分が無職にどういう発言をしたのかは、まったく問題にならないのである。これ、理論的に破綻していると思う。まあ、ぼくが、そう思うだけで、当の本人たちは、そうは思わないのである。これも、ちょっと脱線してしまうけど、言っておこう。たとえば、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということを言っている言霊主義者がいたとする。この言霊主義者が病気になった場合、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということはまちがっていたということだ。そういう現実にぶつからなければならないのである。そして、そういう現実を認めなければならないのである。『「私は病気にならない」と言えば病気になることはない』ということは、まちがっていたということを認めければならないのである。ところが認めない。これこそ、現実に立ち向かわないで、現実をごまかして認識しているということではないか? しかし、そういうふうには思わないのである。こういう人たちは、そういうふうには思わない。今度は、『「病気は治る」と言えば治る』ということを言いだす。そして、わざわざ、病院に行くのだけど、病気が治ったら『「病気は治る」と言えば治る』ということ言い出すのである。「事実だ。事実だ」という。『「病気は治る」と言えば治るということは、正しい。実際に、私の場合、病気が治った』ということを言う。「私は病気にならない」と言えば病気にならないんじゃないの? そっちは、どうなっているの?
まあ、そっちは、どうなっているの? ということを、ぼくが言ったって、言霊主義者は認めないのである。ああっ、あと、『「病気は治る」と言えば治る』のだから、病院に行く必要なんてないのである。「病気は治る」と言えば治るのだから、「病気は治る」とひとこと言えばいいだけの話だ。どうして、病院に行くの? なんで、入院するの? 病気は、治ると言えば、治るんでしょ。言えばいいじゃない。
まあ、普通の人、アドラー主義者、言霊主義者と見てきたけど……語ってきたけど……みんな、ご都合主義なんだよなぁ。自分の気持ちだけなんだよなぁ。言われた人のことをまったく考えてないんだよなぁ。
まあ、話がずれたので、話をもとにもどす。その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについては、わからないけど、前後の文脈がたいせつなのではないかということだ。これも、自分が否定できないことを言われたということだけを問題にしているんだよ。「否定できないこと」を言うのは、ずるいというようなことを言う人は、自分が否定できないことを相手が言ったということをだけを問題にしている。そのまえに、「慢性疲労症候群なんてたいしたことがないから、Bさんは働けるのに、働こうとしない。病気に逃げている」ということを言っている。だから、Bさんが「あなたに、私のからだのことがわかるのか」ということを言っているわけでしょ。ぜんぜん、きたくない。卑怯じゃない。むしろ、Aさんが、そういう決めつけをするのがよくない。かってに、「慢性疲労症候群なんてものはたいしたことじゃない」「慢性疲労症候群でも働ける」「慢性疲労症候群でも働けるのに、働かないのは、けしからんことだ」ということを言っている。「検査で正常なら、病気じゃない。病気じゃないなら働ける」と、勝手に、思っている。検査というのは、完全じゃないのである。その検査は、その検査でしかないのである。こういうことがわかってない。普通の検査だと、毛細血管のつまりぐあいはわからない。毛細血管のつまりぐあいを問題にしないなら、正常だということを言っているだけなのである。レントゲンとか、普通の血液検査では、毛細血管のつまりぐあいはわからない。けど、毛細血管がつまってしまうと、「だるい」とか「しんどい」という主観的な認識が発生するのである。毛細血管のつまりぐあいを調べるにはDダイマーという検査をしなければならないのである。だから、検査をしたと言っても、抜けている検査があるかもしれないので、普通の検査をして正常なら(広い意味で)病気ではないとは言えないのだ。
さきに攻撃を加えておいて、『 その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯だ』と言い出すやつが卑怯者なのである。