きちがい兄貴の態度は問題がある。あたかも、鳴らしてないような態度なのだ。「一日中まったく鳴らしてない」「全部の時間ゆずってやっている」という認識が成り立っているような態度なのだ。そして、同時に「自分には関係がない」という認識が成り立っているような態度なのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ほかのうちでは、一分間だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らすことに、こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!鳴らしているのに、自分が、あたかも鳴らしてないような態度なのである。この態度! きちがい的な意地で、絶対、ゆずらないで鳴らしているのに、あたかも、「鳴らしてないような態度」のままなのだ。ぜんぜん、関係がないと思っている人の態度のまま生活をしているのだ。こんなのない。こんなの、きちがい以外にない。こういうことができるのは、きちがいだから。だから!ほかの人が言っている「騒音」とはちがうんだよ。
ほんとうに、関係がない人のつもりでいる。鳴らすのは鳴らすけど、まったく関係がない人がいるつもりでいる。きちがい兄貴が、意地になって鳴らしているんだぞ。きちがい兄貴が、意地になって、こだわりのおとで鳴らしているんだぞ。もっと小さい音で聞けばいいんだよ。これも、ほんとうに、ほかの人に誤解されるところなんだよな。きちがい兄貴……とやらが、ほんとうは、普通の音で鳴らしていたの……あるいは、ちょっとでかいだけの音で鳴らしていたのに、騒音に敏感なエイリが、大げさに言っているだけなんだ……というような誤解がある。この誤解は、けっこう、ありがちな誤解だ。ぜんぜんちがう。「ぜんぜんちがう」と言っているだろ!!
この特殊な態度については、家族のなかにこういう人がいて、その家族がごく自然にそうなっている人しかわからない。特殊なんだよ。そういう特殊な家族とは、やはり、ぶつかるのである。このぶつかりあいは、正常なもの同士のぶつかりあいとはちがう。こういうことが、佐藤のような凡人にはわからない。逆立ちしてもわからない。わからないと、「えいりさんがいっていることがなにかおかしい」と感じるのである。だから、そういう誤解が、しょうじる。
きちがい家族にやられた人は、きちがい家族にやられたことがない人から、誤解をうける。そういうふうに、できている。普通の家族のなかで育った人は、きちがい家族にやられた人……を誤解するようにできている。きちがい家族にやられた人は、一次的にきちがい家族にやられて、二次的に普通の家族のもとで育った人にやられることになっている。そして、家族制度を維持することによって?社会的にそういうことが、認められているような部分がある。「そんなのはしかたがないことだ」ということになっているのである。そして、普通の家族のなかで育ったやつが、きちがい家族にやられた人間をディスって、家族論を展開するのである。この家族論は、普通の家族のもとで育った人にとってみれば当たり前の家族論かもしれないが……同意する部分がたくさんある家族論かもしれないが……きちがい家族に、ごく普通にやられた人間にしてみれば、肯定しがたいことがいっーーぱいある、家族論だ。けど、これも、多数決で、『正当さ』が決まってしまうようなところがある。そういう感覚をもっているものが多ければ、そういう感覚をもっているものが支持される。
誤解。誤解。誤解。これ、ほんとうに正常な家族のもとで育った人は、きちがい的な家族のもとで育った人の事情がまったくわかってない。つねに、誤解している。その誤解は、きちがい的な家族のほうにむけられるのではなくて、きちがい的な家族にやられた正常な人間にむけられるのである。 きちがい的な家族にやられた……こまりまっているけど……正常な人間が、攻撃をされる。それは、誤解に基づいた攻撃だ。けど、これも、攻撃だとは思ってないのである。「あたりまえのことを言っている」と思っている。