ヘビメタ騒音に数千日にわたってやられたことがない人に、どれだけ「朝の憂鬱」ということを言っても、だめなんだよね。わかるわけがない。自分が数千日にわたって、毎日、六時間四五分から一三時間一〇分、自分がこの世で、一番嫌いな音を、至近距離で鳴らされたという経験がない人が、どれだけ、考えてもわからないことだ。影響のでかさがわからないのである。彼らの理解力は「鳴ってた」ということだけだ。自分が経験してないので、それがどういう意味をもつかわからない。これは、もう、猿が人間の気持ちを理解できないというのとおなじだ。まあ、経験がないからわからないだけで、別に、猿並みの能力だとは、言わないけど、そのくらいに、わからないことなのだ。経験がない……想像して考えるしかない……ということであれば、想像力がない人間は、かならず、過小評価する。「ぜんぜん、わからない」わけだから。そうすると、ヘビメタのことを聞いたあとに、ヘビメタのことを無視して、自分の信念について、自動的に語りだすのである。たとえば、「人間は働くべきだから働くべきだ」「その年で働いてないのは、おかしい。みっともない」と、猿並みの理解力で語りだす。こういう、レベルだ。こういうレベルの人間が九九%いる世界だ。自分が鳴ってみなければわからない。自分が経験してみなければわからない……。ほんとうにわかっているとは言えない。その場合、きちがい家族がいる人のほうが少ないわけだから、当然、大多数は、『きちがい家族やられる』経験がない。気ちがいではない家族にやられた経験はあるかもしれないけど、きちがい家族にやられた経験はない。きちがい家族が、どういう行動をするか、ほんとうにはわかってない。きちがい家族が、どういう感覚をもっているのか、外部的にもわかってない。この外部的というのは、そのきちがい家族の行動を考えると、そういう感覚をもっているのだろうということを推測するしかないという、人間の限界を示している。そりゃ、態度にあらわれたもの、発言されたものを考えるしかない。そいつの頭のなかなんて、どうなっているか、わからない。直接、内部の動きを観察できない。だから、外部にあらわれた行動や態度をとおして、内部の感覚を推測するしかないのである。まあ、そういうことが、問題になるのは、きちがい家族だからだ。相手がきちがい家族で、きちがい家族が、きちがい家族の感覚に基づいて、きちがい行動を毎日、つねにするからだ。感覚としては、二四時間中二四時間続いているのだから、つねにスイッチが入っている状態なのだ。そして、きちがい家族が、まわりの人のことはまったく考えないで、自分がやりたいことをやって、自分が感じたことをアクティングアウトしてしまうと、まわりの人は、迷惑をこうむることになるのである。こういうことも、普通の人にはわからない。きちがい家族と一緒に住んでいる人でないと、わからない。わかるわけがないのだ。まわりの人と書いたけど、これは、もちろん、家族のメンバーのことだ。きちがい家族のまわりにいる別の家族のメンバーのことを意味している。
ともかく、まあ、きちがいヘビメタ騒音に実際にさらされたことがない人は、自分の経験に基づいて、勝手に、自動機械のように、感想を言う。その感想が、ことのこどく、まちがっているのだ。どうして、ことのこどく、まちがっているかというと、前提がちがうからだ。この日たちの前提には、ぼくが実際にやられたことが含まれてない。この人たちの理解のレベルで、「騒音が鳴っていた」ということを理解しただけだ。そんなのは、まったく理解してないのと同じどころか、マイナスだ。マイナスの理解をしている。マイナスの理解をして、勝手なことを、語りだす。けど、その「勝手なこと」は、その人にとって重要なことだ。たとえば、佐藤にとっては「人間は働くべきだ」というのは重要なことのなのである。ユキオにとっては「三五歳なら、働いているべきだ」というのは、重要ことなのである。それをしてないというのは、ゆるせないという感情が発生する。経験がないから、そういう発言ができる。自分が経験したことじゃないから、そういうふうに言える。こいつらが、実際に、俺とおなじぶんだけ、毎日、自分の一番嫌いな騒音を、聞かされたわけじゃない。その音の音源が家族だということの意味がわかってない。経験をとおしてわかってない。騒音の問題は、騒音だけの問題じゃないのである。鳴っているときだけうるさいと感じるから、問題があるということではないのだ。けど、それが、からだでわかってない。経験をとおして理解しているわけではない。そうなると、「どれだけ前の日騒音が鳴っていたからと言って、遅刻するのはおかしい」ということになる。「鳴り終わったら、関係がないから、眠れるはずだ」ということになる。「そんなのは、あまい」「そんなのは、いいわけだ」と、発言する。それは、経験がないからわかってないだけなのである。けど、そういうのは、こちらにとっては、侮辱的な発言に思えるのである。実際、侮辱的な発言なのである。そして、こういうトラブルが発生したとしても、当の音源である「きちがいあにき」は、その場にいないのだからわからない。そして、「こういうトラブルがあったから、しずかにしてくれ」と言われても、きちがいレベルではねのけて、理解しないのである。こんなのもの、何十万回、言われても、理解しない。けど、きちがい兄貴がそういう存在だということが、これまた、「鳴り終わったら、関係がないから、眠れるはずだ」「そんなのは、あまい」「そんなのは、いいわけだ」と、発言する人には、まったく理解できないことなのだ。そういう家族が、身の回りにいないから、自分の経験の範囲外のことなのだ。ようするに、そういうきちがい家族がいないので、実際のきちがい家族の「感覚」や実際のきちがい家族の「態度」がわからない。経験をとおして、きちがい家族がどういう感覚で、どういう態度で、そういうことをするのか、まったくわかってない。だから、そういう人たちにとっても、きちがい兄貴の態度は理解しがたいものなのである。