精神論をぶちまけるやつというのは、「その人の状態」を無視しているんだよね。「そんなの関係がない」と言う。なんのことを言っているかわからないと思うので、もうちょっと詳しく説明しておこう。
たとえば、1度の水につかっている人の「カラダの状態」と、1度の水につかっている人が「つらい」と言ったということを、わけて考えるとする。1度の水につかっている人にとって、ほんとうに問題なのは、1度の水につかっているということなのだ!
これが、わかってないんだよね。
1度の水につかっていれば、人間のカラダは、1度の水につかっているときの反応をする。これは、「意志」の問題ではない。「おもいよう」の問題ではない。カラダが反応する。この反応は、現実だ。
ところが、39度のお湯につかっている人にとっては、「現実」ではない。さらに、生まれてからずっと39度のお湯につかっているとにとっては、経験したことが一切合切ない、「現実」だ。だから、39度のお湯につかっている人にとっては、1度の水につかっている人のカラダの反応は、経験をしたことがないものであり、そういう意味で「架空の話」だ。
「想像」するしかないことだ。
けど、「つらい」というような日本語は通じるものとする。
そうなると、「カラダの状態」と「つらいと言った」ということが、不可分なものとして認知されるのだ。39度のお湯につかっている人にとっての現実というのは、1度の水につかっている人が「つらい」と言ったということだ。
いっぽう、1度の水につかっている人の現実というのは、1度の水につかっているから、カラダがそういう反応をするということだ。カラダがそういう反応をするので、「つらい」という言葉を発したということだ。
これは、ふたつとも現実だ。意志に関係なく、反応が起こっている。反応の結果について「つらい」と言っただけだ。「つらい」と言ったことが「すべて」ではないのだ。39度のお湯につかっている人にとっては「(1度のお湯につかっている人が)つらいと言った」ということが現実だ。
39度のお湯につかっている人は、39度のお湯につかっているので、39度のお湯につかっている場合における「カラダの反応」が起こっている。それは、「つらい」と表現できるものではない。もちろん、全身やけどをしていれば、39度のお湯でもつらいと表現するかもしれないけど、そういうことは、捨象しておく。
39度のお湯につかっている人の現実は、1度の水につかっている人の現実ではない。39度のお湯につかっている人の「カラダの反応」は、1度の水につかっている人の「カラダの反応」ではない。……ではない。……ではない。……ではない。
* * *
ぶっちゃけ、「人間にとって労働とは……」と精神論を語りだすやつらがいる。こいつらは、全員、ヘビメタ騒音がなかったやつらだ。俺にとってみれば、39度のお湯につかっているやつらが、1度の水につかっている俺に対して「人間にとって入浴とは……」と語りだしたようなものだ。まったく、意味がない。むしろ、有害。こういう、害虫みたいなやつら、どうにかならないかな? こいつらの人生のなかで、きちがい兄貴の夜きちがいヘビメタ騒音が発生したら、一発でわかることなのに、どれだけ俺が説明をしても、こいつらはわからない。こいつらは「ヘビメタ騒音の影響」を無視する。だから、わからない。「ヘビメタ騒音」は「1度の水」とおなじだ。ヘビメタ騒音が鳴っていれば、「カラダが反応する」。これは、人間のからだをもっていれば、そういうふうになるという反応だ。言っておくけど、「音」ではなくて「騒音」だから。その人にとって「騒音」であるということは、その「音」を不愉快に思っているということなんだよ。だから、『ヘビメタ騒音が鳴っていれば、「カラダが反応する」』という文は、正しい。まあ、これ、「音」と「騒音」のちがいについて述べたけど、こういうことも、ほんとうは、ここで言うようなことじゃない。ともかく、ヘビメタ騒音の影響をかたくなに否定するやつらがいる。「そんなのは関係がない」と言うわけだ。なにと関係がないかというと、ぼくが通勤して働けないということとは関係がないと言うのだ。あほとしか言いようがない。関係がないわけがないだろ。こいつら、ほんとうにくさっている。頭がわるいから、想像力がかけている。あるいは、性格が悪いので、「ヘビメタ騒音の影響」を無視している。人間のからだがそういうふうにできているというとを無視して、精神論をぶちまける。精神論をぶちまけるくそ! こいつらが、語る「哲学」や「思想」になんの意味があるのか? こいつらが、語る「心理学」や「発達障害論」になんの意味があるのか? こいつらが、語る「経済学」や「労働論」になんの意味があるのか? ヘビメタでできなくなったと言っているだろ。日本語!わかる?
ほんとうに、くさりきっているなぁ。
人体の、不可避的な、反応なのに……それを無視して、勝手な精神論を展開しやがって。ぶちまけやがって。説教をしやがって。こいつらだって、おなじぶんの騒音を、おなじ期間、あびせられれば、人体が、不可避的な反応をして、「朝、起きられなくなる」のに、それを無視して、「起きられる」という前提で、説教をする。「俺だって、朝、つらいときがある」と言えば、俺における騒音体験を、否定できると思っている。頭がわるいなぁ。悪すぎる。とりあえず、説教をする人を「説教男」とする。その場合、「エイリのつらさと、説教男のつらさ」ちがうんだよ。「の」が連続するけど「エイリの朝のつらさ」と「説教男の朝のつらさ」はちがう。どうしてかというと、説教男は、エイリとおなじぶんだけ、ヘビメタ騒音に相当する騒音にさらされたわけではないからだ。1度の水につかっているのと39度のお湯につかっている人の、からだの反応がちがうように、ちがうのである。それを無視して、勝手なことを言いやがって……。それで、「いいことを言った」つもりになっているのか? ほんとうに、くそバカ。ありえないほど、くそバカ。