ああいう状態でヘビメタをやられると、どれだけがんばっても、がんばっても、人から誤解されるようになる。そりゃ、鳴っていると、対処できないことが出てくるから……。遅刻でも宿題でも、連帯責任ということになるとつらい。そして、そういうことでなくても、ほんとうに、他人に対する反応で、いろいろな問題が出てくる。ひとつは、ヘビメタ騒音で寝不足になるからそうなる。けど、それだけではなくて、きちがい家族が、あの態度で鳴らしているということが、基本的には、人間関係に悪い影響をあたえているのである。悪がおこなわれている。その悪について、きちがい親父が黙認をしている。そして、ヘビメタでこまっているということを無視している。きちがい兄貴もきちがい親父も俺が、ヘビメタ騒音でこまっているということを、無視している。これが、感情的にでかいんだよ。普通に俺の人権が踏みにじらてれている。もちろん、宿題をやっていかなくて、こまるのは俺なんだけど、俺がこまっているということをどれだけ言っても、「張本人である」きちがい兄貴が認めない。そして、それが、ほかの家族によって黙認されている。おかあさんは「こまったこまった」の連続だ。そして、常にからだの調子が悪いのである。おかあさんは、唯一、家族のなかで、俺が、ものすごくこまっているいうことを理解してくれている他人だけど、きちがい兄貴ときちがい親父は、どれだけ言っても、理解しないのである。「こういうふうにこまっている」「ヘビメタ騒音でできなかったからこまってる」「明日、こういうことがあるから、やめてくれ」「ヘビメタ騒音が鳴っていると失敗するからやめてくれ」と言っても、そういうことをまったく言われたなかった場合の態度で、きちがい兄貴が鳴らし続けるのである。そして、たとえばだけど、遅刻していけば、「だらしがないやつだ」とクラスの人が思うわけだよ。なおさら、連帯責任で、校庭のトラックを走らされるということになると、うらみが生じるんだよ。じゃあ、遅刻しないことが可能かというとそうではないのである。そうじゃない。けど、そういうことが、ぼくの部屋にいて、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音を経験している人じゃないとわからないんだよ。同じ生活をしている人じゃないと、この必然性がわからない。だから、ヘビメタ騒音のことを説明しても『そんなのは……』という話になる。ヘビメタ騒音のことを説明しても、説明しなくても、誤解されている状態というのは、かわらない。前投稿で、佐藤やユキオの態度について語ったけど、佐藤やユキオにしても、かわりがないのである。最初にできた(ぼくに対するイメージ)はヘビメタ騒音のことを説明しても、かわらないのである。「無職はみっともない」と思っている人に、ヘビメタ騒音で無職なのだということを説明しても、最初にできた、ぼくに対する、「ダメなイメージ」というのがかわらない。これは、無職うんぬんのことではなくても、小学生時代のときからずっとそうなんだよ。とくに、中学生時代と高校生時代がひどかった。これ、みんな、ヘビメタ騒音で「遅刻をしてしまう」ということがわかってないんだよね。ヘビメタ騒音について説明すれば、「そんなのは、お兄さんに言えばいいでしょ」ということになってしくお。それは、普通の家族と生活している人は、きちがい兄貴のきちがい的な無視のしかたがわからない。どれだけ、鳴らしていても、弟がこまらないと思っている。それは、兄貴にどれだけ説明しても、兄貴にはわからないことなんだよ。きちがい親父とおなじでわからない。これが、兄貴ひとりだけならともかく、オリジナルとして、きちがい親父も同種類のきちがいだから、四人家族なのに、ふたりも、「無視をしてやる着るきちがい」がいるということになる。どれだけこまると言っても、相手がこまることを、全力で無視してしまう人間がいるんだよ。そして、全力で無視して、相手がこまることをゆずらずにやりきったということも無視してしまう。そして、相手が自分に「こまるからやめてくれ」と言ったことを、完全に忘れてしまう。最後の「相手が自分にこまるからやめてくれと言ったことを、完全に忘れてしまう」ということにかんして言うと、これまた、そういうきちがい的な人間が家族のなかにいる人じゃないと、まったくわからないような感じで、忘れてしまう。これ、とりあえず、忘れてしまうと書くしかないのだけど、最初から認識してない。そして、最初から認識してないというのは、人間として、かなりおかしいことなのである。だから、常識的な人は、俺が言っていることを信じない。そういうことがしょうじてしまう。これは、ぼくの説明力の問題じゃないのである。よその人に対するぼくの説明がへたくそだからよその人が信じないということではないのである。また、兄貴に対して、ぼくが「こういうことでこまるかやめてくれ」「こういうことでこまるから、しずかにしてくれ」ということを言っても、兄貴が理解しないということは、ぼくの説明がへたくそだから、兄貴が理解しないということでもないんだよ。けど、普通の家で育った人は「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「ちゃんといえばやめてくれるよ」と言うのである。で、そういう前提でものを考える人は、「そのとしで働ていないのはおかしい」「人間働くべきだ」と考える人とおなじで、ぼくが説明をしても、その考えがかわることがないのである。その人のなかでは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音という問題は「ちゃんといえばやめてくれる」のにちゃんと言わないからダメなんだと思うような問題であり続ける。あとは、「きちがい」という言葉の使い方についてからんでくる人がいる。俺だって自分の家族を「きちがい」とは言いたくない。けど、現前として、うちのなかでなりたっている、親父や兄貴の態度が、きちがいの態度なのである。(厳然ではない)。けど、怒り狂ってゆずらないさまは、きちがい的な意味で厳然としているところがあるなぁ。あくまでも、きちがい的な意味でだけど。本来の意味とはちがうけど。現前だよな。けど、威厳とかそういうものはないけど、きちがい的な意味で頑固さがあるんだよ。この頑固さが、ほんとうに、頭がおかしい頑固さで、ほかの人にはわからない。ともかく、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で認めないということになる。「きちがい」と言わないと、うまく説明ができないところがあるのである。どうしてかというと、「矛盾」しているから。そして、きちがいという単語を使ったにもかかわらず……矛盾を軽減するためにきちがいと言う単語を使ったにもかかわらず「そんなへんなひとはいない」「そんなことはない」と普通に考えてしまう普通の人たちが多い。この人たちにとっては、ぼくが言っていることが……ぼくがきちがい兄貴やきちがい親父について言っていることが……嘘なのである。この人たちは、ぼくの言っていることを、この人たちの感覚に基づいて、信じない。ぼくが勝手に、嘘を言っていると思うわけだ。……ごく自然に……。
厳然には、いかめしいという意味が含まれており、いかめしいには 「猛烈である」という意味が含まれているので、かすってはいる。猛烈ではある。おごそかではないけど、猛烈ではある。