そりゃ、「俺だってつらいことがあった」で、やめるなら「つらいことがあったんだな」と思うけど、「俺だってつらいことがあった」と言う人は、みんな、そろいもそろって「だけど働いている」というようなことを言うのである。あるいは「自分が働いていることを前提として」そういうことを言うのである。「つらいことがあった」……それは、「あなた(エイリ)のヘビメタ騒音のつらさとおなじだ」……けど、「俺は」がんばっている……ということを言うわけだ。それは、ただ単に「俺は、つらいことがあったけどかんばっている」ということではないんだよ。「同等のつらさを経験した俺が働いているのだから、エイリも働ける。エイリも働くべきだ」ということを言っているわけ。
けど、同等のつらさじゃない。 ちがう。大いにちがう。けど、俺(エイリ)がどれだけ「ちがう」言っても、相手には伝わらない。相手は「同等のつらさを経験した」と思っている。同等のつらさを経験したのにもかかわらず、がんばって働いている俺、すげーー」という感情がある。そういうふうに見なしている。逆に言えば、「同等のつらさしか経験してないのに、働けなくなっているエイリは弱い」とか「同等のつらさしか経験してないのに、働かないエイリはずるい」という感情がある。みなし方がある。
けど、ちがう。同等じゃない。ほんとうに、同等じゃないのである。その困難、つらさを経験させた相手は、家族なのかというと、家族ではないのだ。その困難、つらさがどのくらい、長引いたのかという期間の長さをくらべると、同等ではないのだ。だいたい、きちがい的な相手に鳴らされ続けているときの状態というのがちがう。その相手の困難、つらさが騒音である場合、ぼくの騒音より、物理的な音のレベルが小さいと思う。おなじじゃない。おなじじゃない。おなじじゃない。おなじじゃないのに、勝手に、「おなじだ」とみなして、えらそうなことを言ってくるな。ぼくは、こういっちゃなんだけど、騒音耐性も、根性も、ほかの人よりは、ある。平均よりもある。普通の多くの人よりもある。けど、それを、覆すほどのきちがい騒音だったんだよ。だいたい、きちがい兄貴のような家族をもつ人が、どれだけいるのか? きちがい親父のような家族をもつ人がどれだけいるのか?
「そんなのはおかしい」と言ったり、思ったりする人たちは、みんな、みんな、みんな、ぼくの家族とはちがった種類の家族をもっている人たちなんだよ。ようするに、家族のなかにきちがい親父やきちがい兄貴のような人がいない。だから、ぼくの話を聞いたとき「そんなのはおかしい」と思うんだよ。「そんなのはおかしい」「そんなひとはいない」「そんなことってあるのかな」と思う人は、そう思って、ぼくの話を信じないというところがある。これも、やっかいなんだよな。そして、ぼくが実際に無職だったり引きこもりだったりすると、「無職だから嘘をついている」「引きこもりだから、嘘をついている」と思うのだ。ようするに、無職や引きこもりは、信頼できる人間ではないのである。その信頼できない人間が、「へんなことを言っているのだから」「嘘にちがいがあるまい」と思うのである。頭がわるいのか、偏見に見ているからそう考えるのかわからないけど、そう考えてしまう。
きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度について、語ると、そういうことが発生する……場合がある。きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度が「普通の人にとって」異常なので、信じないのである。「それは、なんかちがう理由があるのではないか」と考えてまうのである。きちがい親父における「ハンダゴテの話」だって、信じない人は信じない。兄貴が親父の態度について正確に説明したとき、学校の先生やほかの生徒は信じなかった。「説明がへたくそだから親父さんがわからなかっただけだろ」とゆがんだ会社をしてしまったのである。けど、これは、ゆがんだ解釈だ。きちがい兄貴は、親父の態度のことで、そういうふうにいやな思いをしているのに、自分が相手にやる場合は、親父の態度とおなじ態度でやってしまうのである。自分が親父の態度で、いやな思いをしたから、ほかの人にはそういう態度をとらないようにしよう……なんて考えないのだ。考えるわけがない。自分が「やられれれば」腹がたつけど、自分がやっているときは、「そういうことをしている」とは思わないのだ。これは、指摘されないから、わからないということではなくて、明確に指摘されても、まったくわからないままのことだ。きちがい兄貴における「ヘビメタ騒音」はまさしく、きちがい親父における「ハンダゴテ」なのである。どれだけ意地になっているか? どれだけ、普通の人が理解できないような感覚に基づいて行動をしているか? そして、普通の人が理解できないような感覚に基づいて行動をしているということを、どれだけ、認めないか。全部、ほんとうにおなじなのである。きちがい親父の態度ときちがい兄貴の態度はおなじなの。けど、普通の人には、『きちがい親父の態度もきちがい兄貴の態度も』わからない。自分の人生のなかでそういう人に出会ったことがないので、わからないのだ。そうなると、そういう人とのトラブルも「よそよそしいこと」になる。どこかちがう世界の話のように聞こえるのである。それが、「へんなかんじがする」「そんなのはおかしい」という判断になる。なので、きちがい的な意地でやった人のことは、無視してしまう。話のなかに出てくるへんな人のことは無視してしまう。軽く考えてしまう。その人がやったことを……話のなかに出てくるへんな人がやったことを軽く考えてしまう。そうなると、「たとえ、そうだとしても、いつまでも影響をうける必要がない」とか「過去のことは関係がない」という考えが頭に浮かんでしまう。そして、それを前提に、目の前のぼくに、説教をしはじめるるのである。頭にくる。
ぜんぜんちがうのに、「つらさはおなじ」「困難の度合いはおなじ」と思って、勝手に、へんなことを言ってくることになる。それは、へんなことだ。まちがったことだ。なぐりたくなることだ。
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