じつは、自分でご飯をつくって食べて生きているだけで、相当にたいへんなのだ。
また、横になる。
今日は、おつかいに行きたかったんだけど、むりかな。
ほんとうに、ぼろっぼろ。楽しくない。そして、たとえば、楽しむために、電車に乗ってどこかに行ったとするだろ。楽しめないんだよ。ヘビメタ騒音でさ迷い歩いていたときの気分になる。さみしくて、不安な気分だ。けっきょく、ヘビメタ騒音で一日が台なしになる。その一日の繰り返しが、ぼくの人生をつくった。で、一日がヘビメタ騒音の一日とおなじなのである。十五年間毎日鳴らされたあとは、十六年目からも、ヘビメタ騒音の一日とおなじなのである。一日が、ヘビメタ騒音の一日とおなじなのである。これが、ほかの人にはわからないんだろうな。どんだけ、くるしいか。だれと会っても、どこに行っても、ヘビメタ騒音で楽しくないんだよ。
これ、ほかの人にはわからない。ほかの人には、ヘビメタ騒音の十五年間がないから。十五年間、毎日!がないから。毎日毎日、十五年間やられたら、そりゃ、からだに影響が残る。十六年目から、鳴ってないから、影響がないかというと、ある。けど、ほかの人はそういうことを無視する。自分がやられてないからわからない。自分が実際に、この世で経験したわけじゃないからわからない。
ヘビメタ騒音の「いちにち」というのが、わからない。「いちにち」だけでも、どれだけつらいか……。どれだけつらいかわからない。精神に影響がある。物理的な身体に影響がある。これ、前にも言ったけど「仕事も人づきあいもうまくいっているけど、なんとなく憂鬱だ」というような憂鬱とはちがうのである。アメリカ人の認知療法家が書いた本だから、アメリカ人の話になるけど、あるアメリカ人が、仕事のあと、同僚とスカッシュをしたんだって。で、スカッシュの試合が終わったあと、更衣室で、憂鬱を感じたんだって。それは、認知のゆがみによるものだと認知療法家は言うわけ。
ヘビメタ騒音が原因なんだよ。ヘビメタ騒音でどれだけつらいか。認知がゆがんでいるわけじゃないのである。俺にとって、兄貴のヘビメタ騒音は、めちゃくちゃにこたえる騒音なのである。あの至近距離で、あんな音で、ヘビメタを鳴らされ続けていいわけがない。きちがいだから、すべての時間を使ってきちがいヘビメタを鳴らしていた。鳴らすとなったら、絶対に、自分が思ったとおりの音で鳴らさなければ気がすまないのである。だから、ゆずらない。けど、ゆずらなかったという気持がないのだ。ほんとうは、一分だって、一秒だってゆずらないのに、本人は、そんなつもりがないままなのだ。この、アクティングアウトと、本人の意識のちがい。認知のちがい。普通の家じゃ、一分間だって絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに、ゆずってやったと思っている。きちがいだからそうなる。この感覚のちがいも、きちがい兄貴と一緒に住んでいない人にはわからない。きちがい兄貴が、どういう感覚で、どういう態度できちがいヘビメタを、きちがい的な意地で鳴らしているか、みんな、まったく知らない。