39度のお湯につかっている人は、別に、能力があるわけでもなく、性格がいいわけではない。最初から39度のお湯につかっているから「快適だ」と感じることができるわけだ。
そして、39度のお湯につかっている人は、1度の水につかっている状態から39度のお湯につかっている状態を、自分の努力で、手に入れたわけではない。
つまり、1度の水につかっている人がどうすればよいのかということは、知らないのである。知らないのに、「快適になる方法」を、1度の水につかっている人に教えて、優越感にひたっているのである。
「1度の水につかっているところから、自分の力で39度のお湯につかれるようにした」ということではないのだ。このことは、絶対におぼえておかなければならないことだ。
彼らは、最初から39度のお湯につかっていて、1度の状態を知らない。
1度のお湯につかっている人は、1度の水につかっているので、「つめたい、つめたい」と言うわけだ。「つめたい、つめたい」というのは、39度のお湯につかっている人から見れば、「愚痴」と認識できることである。また、「不満を言っている」と認識できることなのである。
それは、1度の水につかっているから出る言葉なんだけど、それを、条件的にめぐまれている人は「愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言っている」と決めつけるのである。
それを、条件的にめぐまれている人は「不満を言いやすい性格だから不満を言っている」と決めつけるのである。
自分は愚痴を言わない性格でポジティブな性格だから「快適だ快適だ」と言っていると思ってしまう。完全に、うぬぼれている。
人間のからだの構造を考えれば、1度の水につかっていれば「つめたい」と思うのがあたりまえだ。
そして、それは、からだに悪いことなので、「つらい」と思って、「つらい」と言う。それは、人間のからだをもつものにとっては、あたりまえのことだ。
ところが、めぐまれているがゆえに、うぬぼれている人は、めぐまれていない人に対して「愚痴を言うから不幸になる」「不満を言うから不幸になる」と言い放ってしまう。
39度のお湯につかっている人が、1度の水につかっている人間に対して、「愚痴を言うから不幸なのだ」言い放ってしまう。1度の水につかっている人のことをバカにする。もちろん、バカにするつもりはないのだろうけど、バカにしている。
さらに「自分は愚痴を言わない(いい性格だから)しあわせなんだ」という自分勝手な解釈をしているのである。39度のお湯につかっている人は……。うぬぼれ。うぬぼれ。
1度の水につかれば、自分だって「つめたい」「つめたい」と言うようになるのだけど、そういうことに関して想像することができないのである。生まれたときから、めぐまれているから、めぐまれない人のことが、自分の経験をとおして理解できない。
うぬぼれている人は、一生のなかで一度も、1度の水につかったことがない。だから、うぬぼれている人は、めぐまれてない人がさらされている状態がわからない。
めぐまれているがゆえに、うぬぼれている人は「つめたいと愚痴を言うから、不幸になる」「不幸な人はみんな、愚痴を言う」と、因果関係を無視した二項文を言うことになる。まるで、アドラーのように。
ようするに、「1度の水につかっている人は、愚痴を言うから不幸になる」ということを、39度のお湯につかっている人が言う。しかし、ほんとうは、1度の水につかっているから、不幸なのだ。
愚痴を言うから不幸になるのではなくて、1度の水につかっているということ自体が、不幸な状態なのだ。その状態自体が不幸だ。
いっぽう、39度のお湯につかっている人は、その状態自体が、幸福なのだ。別に、能力や性格の問題ではないのだ。
状態が発言をつくりだしている。
条件が発言のちがいをつくりだしている。
ところが、めぐまれているがゆえに、うぬぼれている人は、状態や条件のちがいを無視して、「自分は性格がいいから、幸福」「愚痴ばかり言って性格が悪い人は、不幸」などということを言い出す。
「快適だ快適だと言えば快適になる」ということは、すでに、39度のお湯につかって、快適だと感じている人が言う言葉なのだ。
この人たちは、「快適だ快適だ」と言う前に、快適な状態を経験している。言葉にしなくても、快適なのだ。すでに快適。
ところが、「快適だ快適だと言ったから快適に感じることができるのだ」とまちがった解釈してしまうのである。
1度の水につかっている人は「快適だ快適だ」と言っても、快適な状態にならない。1度の水につかっているからだ。1度の水につかっているということが、くるしさをうみだすのである。
1度の水につかりながら「快適だ快適だ」と言っても、水温があがるわけではないので、快適にならない。言えば快適になるというのは、まちがった理論だ。めぐまれた人がめぐまれてない人に対して言う言霊的なアドバイスは、まちがっている。状況を無視したアドバイスなので不適切だ。
快適な人が、だれに、アドバイスをするのかというと、快適ではない人にアドバイスをするのだ。しかし、このアドバイスでは、水温をあげることができない。
そうなると、1度の水につかっている人は「快適だ快適だ」と言いながら、1度の水につかっているということになる。アドバイスを聞くとそういうことになってしまう。
こごえながら、「快適だ快適だ」と言うことになるのである。
これは、快適な状態じゃない。
そして、認識としては、こごえながら「快適だ快適だ」と言っているという認識がしょうじる。
これは、つらい状態だ。やせ我慢をして、自分をごまかしている状態なのである。
アドバイスにしたがう場合、39度のお湯につかっている人が、水温という条件を無視したように、1度の水につかっている人も、水温という条件を無視してしまう。
39度のお湯につかっている人が「快適だ快適だ」と言いやすいのは、39度のお湯につかっているからだ。そして、1度の水につかっている人が「つめたい」と言いやすいのは、1度の水につかっているからだ。
ところが、39度のお湯につかっている人がそういう条件を無視して、「快適だ快適だ」と言えば快適になるというアドバイスをしてしまう。
1度の水につかって「快適だ快適だ」と言っても、快適にならない。
その方法は無効な方法なのである。
どうして無効かと言うと、1度という水温が不幸感をうみだしているのだからだ。1度という水温がかわらなければ、不幸感がへることはない。ようするに、快適だ快適だということよりも、実際に温度がかわることが必要なのである。
「快適だ快適だ」と言うことで水温があがればいいけど、あがらない。39度にならない。39度の人は、「快適だ快適だ」と言うまえから「快適」なのである。
この人たちは、これがわかってない。そして、この人たちは無効なアドバイスをする。
けど、39度のお湯につかっている人は、自分のアドバイスが無効なアドバイスだとは思ってないのである。
どうしてかというと、自分には有効なことだからである。
自分は「快適だ快適だ」と言ったら快適に感じた……と思っているのである。
なので、その方法は有効なのであり、「無効だ」と言ってくるやつは、言いがかりをつけているだけだと思うようになる。「無効だ」と言ってくるやつのの性格が悪いと思うようになる。
もともと、快適なのだけど「快適だ快適だ」と言ったら、快適であると認識をしたということなのであるけど、この人たちは「快適だ快適だ」と言った「から」快適なのだと誤認してしまう。
そして、「つめたい」と言っている人たちを見て、「愚痴を言う人」「文句を言う人」「ネガティブな人」と決めつけてしまう。
快適な温度のお湯につかっている側から見ると、「つめたい」と言っている人は、そういう「ダメな人」にしか、見えないのである。だから、これに関しても、……彼ら……恵まれた人は……「自信がある」状態なのである。
「つめたい」とネガティブなことを言うやつは性格が暗くて、不幸だけど、「快適だ」とポジティブなことを言う私は、性格が明るくて、幸福な人間だと思ってしまうのである。
「つめたいと言うからだめなんだ」「つめたいとつらいとうけとめるから、だめなんだ」と言って、「ダメな人が不満を言った」「ダメな人が愚痴を言った」ということを問題にする。
また「つめたいと言っている人は、つめたいとうけとめているからだめなんだ」と言って、うけとめかたを問題にする。
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「つめたいと愚痴を言う人は、愚痴を言うような性格だからダメなんだ」と言って、「つめたい」と言う人のことを、「愚痴を言う人」と決めつける。さらに、「愚痴を言うような性格だからダメなんだ」と性格のせいにする。
こういう人のなかでは、一度の水につかっているときに「つめたい」というのは、愚痴なのだ。そういう経験がない人には、そういうふうに見えるのである。
AさんとBさんがいたとする。Aさんが「つめたい」と言ったとする。Bさんが、Aさんが「つめたい」と言ったところを見て、「Aさんは愚痴を言った」と認識した場合、Bさんにとって、「Aさんが愚痴を言った」という認識ができあがっただけだ。
Bさんのなかでは、Aさんが愚痴を言ったということは、事実として認識されるのである。しかし、愚痴かどうかはわからない。Aさんは「つめたい」と言っただけ、「愚痴」を言ったわけではない。「つめたい」と言ったということを、「愚痴を言った」と変換してとらえたのは、Bさんのなのである。
しかし、Bさんは、Aさんが愚痴を言ったと決めつけている。
しかも、Aさんが、ずっと、1度の水につかっているという、状態は無視して、そういうことを言う。「愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言う」「愚痴を言いやすい性格だから、不幸なのだ」と決めつけてしまう。
アドラーのような人は、こういうことをやっておいて、「自分は性格がいいけど、愚痴を言っているやつらは、性格が悪い」と思っているのである。