まっていると、青いかごが出てこない。青いかごが出てくるのを、いまかいまかと、ずっとまっているけど、出てこない。青いかごというのは、カラスよけのかごだ。このかごが出てくるまでなまゴミを出せなくなってしまったのである。
ヘビメタ騒音の朝みたいな感じになってきた。鳴っているときの、一日の始まりみたいな雰囲気だ。これは、こたえる。
みんなわかってないけど、ヘビメタ騒音がこたえる。昨日の夜鳴った、ヘビメタ騒音が次の日の朝にこたえるのである。一日のなかでも「過去のことは関係がない」なんてことはない。どんだけ、関係あるか。どれだけ毎日、おなじように、ヘビメタ騒音が積もりにつもって、くるしいか。つもるんだよ。で、この雰囲気と、たとえば、女の子とつきあえなかったということは、つながりがある。ヘビメタ騒音の日々なのである。たとえ、はじめてあった……理想的な相手が、話しかけてきても、そうなのである。
人生のなかでも、「過去のことは関係がない」なんてことはない。これ、ちがうのである。そういうことを言う人たちが経験した過去と、ぼくが経験した過去は、ぜんぜんちがう。そういう人たちは、きちがい家族と一緒に住んでいるわけでもなく、きちがい家族と一緒に住んでいたわけでもない。普通の家族と一緒に住んでいたのである。あるいは、普通の他人と一緒に住んでいたのである。きちがい家族が、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為を、きちがい的な意地でやり続けるかなんて、まったくわかってない。その人たちが、想像する「他人」とは、ちがう「他人」なのである。その人たちが想像する「家族」とはちがう「家族」なのである。で、きちがい的な意地で鳴らしたきちがい兄貴が、一番、わかってないのだ。きちがい的な意地でやってるやつが、きちがい的な意地でやったということを、がん無視する。がん無視したら「やってないこと」になってしまうのである。やるということは決まっているけど……どれだけなにを言ってきたって、一秒もゆずらずに、自分がやりたい時間は絶対にやるということは決まっているのだけど、「やった」という気持がまったくしょうじないのである。「まったくやってないから、そんなのは知らない」という意味で、他人ごとなのである。自分が意地になってやったことがまったくわかってない状態なのである。自分がやったことじゃないから、知らないという無関心さが、ある。そういう無関心さは、やっているときのきちがい的な意地とおなじで、きちがい的な無関心さなのである。だから、こまるのである。
実際に、きちがいヘビメタをあびせられると、鳴り終わったあと、どうしても眠れなくなるのである。だから、朝は、めちゃくちゃにきついのである。そういうことだって、そういうことを経験したことがないやつが、「眠ろうと思えば眠れる」とか言い出すわけで、こまるのである。「健康管理ができないやつはだめだ」とか言い出すわけで、こまるのである。同じ条件で暮らしているわけではないのに、どうしてそういうことが言えるのか? ぶんなぐってやりたくなる。ぶんなぐってやりたくなるのを、おさえて生きているのである。こんなのない。こういう、きちがい兄貴といっしょにすんだことがない人が言う、正論みたいなものは、全部、ぼくにとって、正論じゃないのである。そもそもが、状況を理解してない、自分勝手な発言なのである。
けど、そういう人間のほうが多い。兄貴みたいな家族と一緒に住んでる人間が少ないからだ。ぼく以外の人は、きちがい兄貴といっしょに住んでいるわけではないのである。きちがい的な感覚をもった人が鳴らす、騒音に、くるしめられているわけではないのである。きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを鳴らし続けるなんてことは、そういうことを言う人たちの人生のなかでは、発生しなかったことだ。家族であるということが、どれだけ重要なことかわかってない。家族なんだよ。家族だからこそ、追い込まれるんだよ。その家族からも、まったく関係がない他人からも。大多数の人が、きちがい家族による騒音を経験してないのだから、ぼくの言っていることは、根本的なところで、大多数の人にはつうじない。大多数の人が、必然的に理解しないのである。
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あーーーー、ヘビメタ騒音なしで暮らしたい。ヘビメタ騒音が発生しなかった場合の人生を歩みたい。あんなの、ない。あんなのは、きちがい親父がつくった家じゃなければ絶対に発生しないことなのである。きちがい親父がつくった家ではない家の場合、どれだけ、きちがい兄貴が、弟の言うことを無視して、がんがんでかい音で鳴らしたいと思っても、鳴らせなくなってしまうのである。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らし始めたら、きちがい親父がそれに協力をしてしまうのである。理解をしめしてしまうのである。「鳴らすなんて言えない」とか言い出すのである。横の家の人がきちがい兄貴の騒音に文句を言ったときは……きちがい親父に聞こえるように文句を言ったときには……「なんだ、せっかく、人の息子が鳴らしているのに!」なんて、すごい目つきでおこってしまうのである。俺が「きちがい兄貴に注意してくれ」ときちがい親父に言えば、きちがい親父は「なっちゃったらなっちゃったでしかたがない」などと俺に絶叫して、自分の寝床にもぐりこんでしまうのである。こんなのはない。頭がおかいから、そういう反応をする。よその人は、親が文句を言わないのであればそんなにでかい音で鳴っているのではないのではないか」と考えてしまうのである。こうやって、おいつめられていくのである。
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きちがい兄貴は、ほんとうに、自分に都合よく狂っているきちがいなので、ほんとうに、「でかい音で鳴らしているつもりがない」のだ。もし、きちがい兄貴が鳴らしている音と同じ音のでかさで、だれか他人が、きちがい兄貴の聴きたくない曲を聴いていたら、「損にでかい音で鳴らすな!!!」と一秒で怒り狂うような音で鳴らしているのに、自分が鳴らしたい曲だと、ものすごくでかい音で鳴らしても、ぜんぜん、でかい音で鳴らしているつもりがないという状態になる。普通は、きちがいでなければ、そういうことはできないのである。普通の人の場合、耳が正常なら、自分の気持ちと関係なく、でかい音はでかく聞こえるのである。普通の人が鳴らさないようなでかい音で、鳴らすときは、でかい音で鳴らしているという認知がしょうじるのである。けど、きちがい兄貴はきちがいだから、自分の都合がよくなるように、感覚を書き換えてしまうのである。なので、その感覚からしょうじる認知は、正真正銘、でかくない音で鳴らしているという認知になってしまうのである。こういう「だまし」はきちがい親父もおなじで、普通にそういうことをするから、腹がたつ。やられた人は腹がたつ。やられた家族は腹がたつ。ほかの人の場合は、感覚を書き換えるわけではなくて、でかい音で鳴らしているということは、感覚して、でかい音で鳴らしているという認知がある状態なのである。そういう状態で、自分の意地を通して鳴らしている場合、でかい音で鳴らしたいからでかい音で鳴らしているという認知も成り立つのである。だから、どれだけうそをついて「でかい音で鳴らしてない」と言っても、本人は「でかい音で鳴らしている」ということを知っている状態が成り立つのである。けど、きちがい兄貴の場合は、でかい音で鳴らしたいという気持が無意識的に成り立って、その無意識的な内容によって、感覚が書き換えられてしまうのである。だから、特別に悪いことをしているつもりが、どれだけやったって、しょうじないのである。また、特別に悪いことをしているつもりが、どれだけ言われても、しょうじないのである。自分だって、ほかの人にやられたらこまることを、やっているのに、自分は、そういうことをしているつもりがまったくないまま暮らしているのである。どれだけ「でかい音で鳴らしている」と言われても、まったく「でかい音で鳴らしている」ということがわからないのである。まったくわからないという状態が、都合よく成り立っている。だから、本人としては、悪意があるつもりがないということになるし、困らせている行為をしているつもりがないということになってしまうのである。どうしてそうなってしまうかというと、ずるをするからだ。感覚器を書き換えるというずるをして、やりたいことをやってしまうのである。そして、やりたいことをやったあとは、まったくやってないつもりになってしまうのである。おそろしいことに、やっている最中ですら、まったくやってないつもりでいる。