ヘビメタ騒音の影響がどれだけでかいか、想像することができない、想像力がない人から、俺が、……この俺が……ばかにされるんだぞ。説教、されるんだぞ。こういうことになってしまうから、「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」ときちがい秋にの部屋に行って、絶叫したのに、きちがい兄貴は、ほんとうに、まったくわかってないなぁ。きちがい的なやり方で「のりきって」やってしまうのである。けど、「のりきってやった」ということを、これまた、きちがい的なやり方で「認識しない」のである。初めから認識してないのだから、「忘れた」わけじゃないんだよ。一度、認識したことを、忘れたわけじゃない。けど、認識したのかどうかなんて、外から見てわかるわけじゃないのだから、おなじ意味を持ってしまうのである。「認識して忘れたということ」と「最初から認識してないということ」は、おなじ意味を持ってしまうのである。そうなると、ほかの人は、忘れただけなのではないかと思ってしまうのである。そうなると、きちがい兄貴はきちがい兄貴ではなくて、忘れやすい人だということになってしまうのである。忘れたのであれば、よくある話になってしまう。けど、ちがう。それから、きちがい兄貴自体が認識してないのだから、きちがい兄貴のなかでは「そんなことはやってない」ということに、なっているのである。だから、こっちから見ると、きちがい兄貴の態度は、すっとぼけて腹がたつことなのだけど、きちがい兄貴のほうは、そんなことは、もちろん、一切合切気にしてない。「そとから見てわかるわけじゃない」のだから、エイリが、想像して話していることだということになるのだけど、それは、そうだ。現実の態度やきちがい兄貴の発言をもっとも、うまく説明できるのが、そういう仮説なんだよ。そりゃ、きちがい兄貴の頭のなかのことなんてわかるわけがない。けど、もし、「一度は認識した」と考えると、おかしなことがあるんだよ。それだと現実が説明できないの! きちがい兄貴の発言は、そう考えないと説明ができないことなんだよ。
こういう感覚器を書き換える「うそ」は普通の人では、つけない「うそ」なんだよ。きちがい兄貴ときちがい親父は、感覚器を書き換えてしまうタイプなのだけど、それは、認知症の人を相手にしているのよりも、はるかに、骨が折れることなんだよ。で、ほかの人は、これがわかってない。どれだけ、そういう態度……で……腹がたつかわかってない。これは、腹がたつ態度なんだよ。「そういう態度」というのは、きちがい兄貴やきちがい親父が、きちがい的な意地で、自分のやりたいことを押し通してしまうときの態度だ。そして、それを認めないときの態度だ。普通の家に生まれた人でも、親が認知症になった場合、あるいは、家族の誰かが認知症になった場合、認知症である人との間の「もめごと」は、健常者同士のもめごととはちがうということがわかるだろう。けど、感覚器を書き換えてしまうタイプの人は、認知症の人よりも、レアなんだよ。そして、こういっちゃ悪いけど、認知症の人なんかよりずっと悪質なことをするわけ。だから、腹がたつわけ。しくみがあるの!!! しくみがあるの!!
それを、まるで、俺の問題のように言いやがって。「気にするやつが悪い」「他人をかえることはできないから自分を変えるしかない」「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」というようこと言うような人たちがいる。この人たちたちが、どれだけ、ひどいことを言っているかの、この人たちはわからない。けど、それは、きちがい兄貴やきちがい親父にある感覚器の言い換えとは関係がないんだよ。けど、「ひどいことを言っている」ということについて説明すると、そういう人たちも、「俺が、そんなきちがい親父や兄貴とおなじだというのか?」と言って、腹をたててしまう場合がある。こういうこと、ひとつをとっても、きちがい兄貴とのあいだにあったこと、きちがい親父とのあいだにあったことというのは、ぼくの人間づきあいに影響をあたえる。「きちがい親父とのあいだにあったこと」というのは「ぼくときちがい親父とのあいだにあったこと」という意味だ。おなじように、「きちがい兄貴とのあいだにあったこと」というのは、「ぼくたきちがい兄貴のとのあいだにあったこと」だ。この、「あいだにあったこと」というのは、実際にしょうじたことだ。実際の出来事だ。ぼくが、頭の中で考えているだけのことではないのだ。みんな、これも無視してしまうけど、実際に発生したことが、人間関係に影響をあたえるんだよ。ちょっとだけ、言っておくと、「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」ということは、実際にあったことではなくて、その人が頭の中で想像して考えていることなんだよ。「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」というのは、想像して考えていることなんだよ。そういう想像をして考えたことを、あたかも、現実的な前提のようにして言うのは、よくないよ。そりゃ、信じているのは勝手だけど、ひとのことについて、そういう前提でものを考えて言うのはよくないよ。失礼だよ。そして、これも、ちょっとだけ言ってしまうけど、認知療法家のきれいごとも、じつは、「むりなこと」を含んでいる。きれいごとにあわせて、実際の現象を認知すればよいということになるのだけど、そうはならないのである。どうしてかというと、そのきれいごとでは、説明ができない出来事が、実際に、たーーくさん、たーーくさん、おこったからだ。現実が説明できないきれいごとを認知の方法として採用する気がするか? ……認知療法家が推奨するような「現実の認識」というのは、まったくもって現実的じゃないのである。認知療法の場合、患者の認知がゆがんでいて、自分たちの認知はゆがんでない……ということが前提に成り立っている。患者の「現実認知」がゆがんでいるからだめなんだということになっているのである。けど、ほんとうにそうなのかということには、ずっとまえから疑問を感じている。